会社法の講義をする際の常套手段として、国の三権分立を使って、会社の機関の説明をする…という方法が、かつて、よく使われていました。

国会=株主総会
内閣=取締役会
裁判所=監査役

首相…おっと、縁起でもない※…ええと…

内閣総理大臣=代表取締役

という図を板書し、会社のしくみを理解していただく…という、比喩の典型でした。

※「首相」という略称は、「首をすげかえやすい大臣」 を連想させるため、縁起が悪いですね。これからは、当ブログでは、「総理大臣」と標記を統一しようと思います。

 

ところが、2005年の商法改正により、独立した会社法が成立、同法が翌年施行されるに及び、株式会社の機関設計の選択肢は大幅に増えました。
国の機関のような典型的な三権分立が成り立たない機関設計も法により認められるようになりました。

たとえば、監査役のいない会社というのも、一般化しました(弊社、すなわち、㈱経営教育総合研究所にも、現在、監査役はいません)。

それでも、

国会=株主総会
内閣=取締役会

あたりの比喩は、今でも断片的に、講義中使用することがあります。

ここで1つ反省。
実は、私の発想は、これまで、常に、

国のしくみ⇒会社のしくみ

という一方通行でした。

「国のしくみのほうを考えることはできないか?」

こういった逆転の発想を昨日まで持つことができませんでした。

2006年にスタートした会社法。
もちろん、完全無欠なものではありませんが、それでも、練りに練ってデビューしただけのことはあり、非常に網羅的・体系的・論理的な法典です。

いろいろなシチュエーションに合わせた柔軟性も兼ね備えており、前述した機関設計1つとっても、概ね理にかなっており、運用レベルに落とした際にも、きちんと機能するように工夫されています。

一方、国の機関についての大枠を定める憲法は成立してから60年以上が経過しており、機関設計の規定はすでに極めて硬直的なものになっています。

国会と内閣の連帯責任のとりかた1つとっても、総辞職と解散…といういわば「相殺」(民法上の「相殺」という意味ではなく、一般的な意味での「相殺」)しか手段がないのでは、時代に即しているとはいえません。

「憲法改正」

というと。9条など国防問題にスポットが当たりがちですが、コーポレート・ガバナンス(企業統治)ならぬ、ナショナル・ガバナンス(国家統治)の方法、具体的には機関設計のありかたや各機関の相互作用について、見直すべき時期に来ていると感じます。

国家において、国民は主権者であり、株式会社における株主としての性質(株主的側面)と顧客としての性質(顧客的側面)とを、両方併せ持っています。

ここでは、株主的側面に注目して、両者(株式会社の株主と国家における国民)を比較してみましょう。

株式会社の株主には、「間接有限責任」が課されている…と会社法の教科書には書いてあります(拙著『新・会社法入門』でも、そう書きました)。これは、「株主たるもの、自分で出資するといった額だけはちゃんと払い込まなければいけませんよ」という責任(義務)です。
一般に、株主に課された「唯一の義務」であるとされています。
(ちなみに、株主総会で投票する権利は、議決権とよばれ、義務ではなく、権利です。)

一方、国民の場合、国民の三大義務として、教育・勤労・納税の各義務が、憲法上、課されています。
株主が、出資(「納税」に近い概念)さえしていればよかったのと比べると、明らかに、国民の義務の範囲は広いのです。
(ちなみに、国民の場合も、選挙は権利であり、三大義務には含まれていません。)

今度は、両者の権利について比較してみましょう。

株式会社の株主は、会社法の教科書には書いてありませんが、1つ、たいへん大きな権利を持っています。
それは、

「出資先選択の自由」

という権利です。
どの会社に投資するか、どの会社の株主になるか、は、株主(となる人=投資者)が自由に決めてよいのです※。

※「これは株主となる前の自由じゃないか」という考えもありますが、そうすると、前述した「株主有限責任」も「株主になる前の義務ですよ」ということになるので、ここでは深く考えないでいきましょう。

一方、国民には、株主の「出資先選択の自由」に対応する権利がありません。
子どもが親を選べないように、国民は、原則として、自分が所属する国家を自由に選ぶことはできません(出生以外の国籍取得(【例】婚姻・養子縁組などによる取得、帰化による取得 等)は例外とします)。
さらにもう1つ。
株主は、原則として、株主総会で自分自身で議決権を行使することができましたが、国民(わが国の国民)の場合、それはできません。間接民主主義を採用していますから、国会議員という代理人を選び、彼らに投票してもらっているのです。株主にも議決権の代理行使という方法は認められていますが、これは、あくまでも、株主の義務であり、原則としては、株主自身が投票できます。

このように、株主に比べ、国民は付与された権利の範囲が狭く、意思決定の自由度が低いのです。
にもかかわらず、株主と比べると、三大義務を課されており、義務の範囲は広いのです。

まとめると、こうなります。

「国民は、株主と比較すると、義務は大きく、権利は小さい」

株式会社の取締役会が株主のために働き、国家における政府(内閣)が国民のために働いているのであれば、政府は国民に対し、取締役会が株主に対して負う責任よりも、ずっと重い責任を果たさなければなりません。
株主に対する取締役会のサービス・レベルよりも、国民に対する政府(内閣)のサービス・レベルは高くなくてはならないのです。

「国民の権利が小さい」ということは、株式会社に置き換えれば、株主全員が、”株主権を制限された株式”を引き受けされているようなものです。

株式会社の場合、たとえば、議決権が制限されている株式(議決権制限株式)については、その分、配当について優先株式になっている場合が多いのです。議決権が制限される分、配当を増やし、株主の権利の「損失補填」を図っているわけです※。

※ 「損失補填」というと、なにやらダーティなイメージが付いて回りますが、これは金融商品取引上の問題。今回は、ダーティな意味で用いているわけではありません。

だとすれば、権利はグッと制限され、義務だけがドンと重くのしかかる国民にも、同様の「損失補填」があってしかるべきです。

では、どのような権利を与え、「損失補填」を図ればよいのか。

この際、多くは望みません(笑)

「安全な生活とまともな政治を享受できる権利」

といったところでしょうか。

国民全体が、最低限マトモな生活(憲法25条1項の生存権とは別な意味ですが)ができるよう、政府(内閣)には、善良な管理者としての注意義務(いわゆる「善管注意義務」)もしくは一生懸命に政務をまっとうする義務(いわゆる「忠実義務」)を果たして頂きたいだけです。

一方、こうやってあらためて比較すると、国民の権利が、株式会社の株主と比較すると、いかに小さなものであるか、再確認できます。

少ない権利のうちの1つ、選挙権くらいはきちんと行使すべきですね。
過去に放棄したことのある身を恥じ、しっかりと反省いたします。

憲法のみならず、国会法・内閣法といった法律の改正には時間がかかりそうですから、ナショナル・ガバナンス強化のための法的な規制を期待するのは難しいかもしれません。
せめて、

「自党が与党となった場合に、首相の健康上の理由などの不可抗力を除き、2年以内に3回以上首相の首をすげ替える場合には、自党議員の報酬の20%をカットする」
といった公約による自主規制くらいは期待したいものです。