本日は完全に閑話休題。
ビジネスとは無縁な話です。ちょっとロマンティックな個人的な話です。
ただ、コンサルタントにとって「探究心」は必要だと思い、書いてみましたm(_ _)m

現在オンエア中のNHKドラマ『新選組血風録』(原作:司馬遼太郎)は思ったよりも「アタリ」でした。役者の演技はイマイチなのですが、とにかく熱演。また、チャンバラ・シーンが割と白熱いたします。斬られると本当に痛そうです。永井大もなかなかかっこいい。役者の名前はわからないですが、沖田総司もひょうひょうとしていて合格点。

ドラマの中では、新選組と距離を置きつつ、一応は「味方」である存在が会津藩。実は、竹永家は、会津藩の出身です。

幕末の会津藩士は、主に年齢によって、青龍隊、玄武隊、朱雀隊、白虎隊、幼年隊に分けられ、配属されていました。
亡き父によれば、幕末時、4代前の我が御先祖様は、白虎隊ではなく、朱雀隊に属していたといいます。

有名な白虎隊は、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊であり、いわゆる少年兵、予備兵力という位置づけ。もっとも、中には、戊辰戦争に参加したいために生年月日を偽り、15歳で出陣した者もいたほか、13歳の年端の行かない子が駆り出されていたという記録もあります。
一方、朱雀隊は、18歳から35歳までの武家の男性によって構成された実戦部隊であり、会津藩の主力部隊でした。年齢的に見ても、一番の働き盛りの集団であることがわかります。

小学生の頃、歴史の時間に、白虎隊について習ってきた私は、父に、

「どうして、うちの御先祖様は朱雀隊だったんだろう。白虎隊だったら有名だったのに」

と嘆いたことがあります。
父曰く、

「たしかに白虎隊だったら有名にはなっていただろうが、俺もお前は生まれてこなかっただろうな…」

確かに。
白虎隊士は、慶応4年(1868年)に、戊辰戦争の真っ最中に、飯盛山で自決してしまいますので。

ところが。
ところが…です。

実は、調べてみると、白虎隊はかなり大きな組織であり、記録によれば合計343人。
このうち、飯盛山で自決したのは19名あまり(1人は未遂に終わり、明治まで生き延びます。いわゆる「歴史の生き証人」です)。

当時の白虎隊343名の内訳は、

① 士中一番隊 49名
② 士中二番隊 42名
③ 寄合一番隊 106名
④ 寄合二番隊 67名
⑤ 足軽隊 79名

だったそうです。
飯盛山で自刃したのは、②「士中二番隊」の一部(19名)といいますから、それ以外の戊辰戦争での戦死者がいたことを差し引いても、隊士の大半は明治まで生き延びています。

実は、会津には「白虎隊の会」(http://byakko1868.web.fc2.com/)というのがあって(さっき知りました)、HPには、すべての隊士の名前が出ていました(http://byakko1868.web.fc2.com/meibo.html)。
この名簿を見ていきますと…

な、なんと、③の「寄合一番隊」の名簿の中に、

「竹永源次」

という隊士がいたのを発見。

「竹永」という姓は案外珍しい姓で、私は未だに親族以外の「竹永さん」にお会いしたことはありません。親戚に聞いてみても、皆口をそろえて一族以外の「竹永さん」には会ったことがないといいます。皆さんの周りに、私以外の「竹永さん」がいたら、是非、おしえてくださいm(_ _)m
ですから、大阪・御堂筋線の梅田駅と中津駅の中間あたりに「カメラの竹永」という写真店を見つけたときには、本当にびっくり! 思わず、店の外装を写真に収めてしまいました。もっとも、店長さんにはまだお会いしたことがないのですが…(笑)

さて、その珍しい姓の「竹永」が、白虎隊寄合一番隊の中にいたとすると、

「これはもしや…」

という一種の期待感が頭をよぎります。

「これはもしや御先祖様だろうか…?」

父から聞いていたのは、幕末に朱雀隊士だったという情報ですが、そもそも、朱雀隊士になる前は白虎隊士であったわけです。
「朱雀隊士であっったか、白虎隊士であったか」という違いは、「高校2年生であったか、高校1年生であったか」という程度の違いですから、可能性は十分にあります。

もちろん、真相はわかりません。
ただ、父を含めた先祖の墓がある会津若松・高巌寺のご住職(遠縁)に伺えば、何かわかるかもしれません。確か、子供の頃、お寺で、家系図のようなものを見せてもらったことがあるのです。

実は、今年3月、父の十三回忌を予定していたのですが、震災の影響で延期(中止かな)になりました。ですので、ご住職にはお会いできていません。
次回、会津を訪問する際には、この「仮説」が正しいかどうか、調べてみたいと思います。
高まる探究心を抑えるのに苦労しそうです(笑)