宇宙にもし他の文明が存在するとしたら、その歴史はどのような過程をたどるのだろうか。

意外と似たような道筋を歩むのか、いくつかの類型に分かれるのか、それとも万華鏡のようにまったく異なる展開を見せるのか――答えは、まさに「神のみぞ知る」領域にある。

この問いから、私は文明に共通する原理があるのかという問題に思い至る。数学の普遍性はよく議論されるが、私がより気になるのは論理学の普遍性だ。数学の大前提は論理学であり、その基本原理の一つに「AかAでないか、どちらかである」という排中律がある。この原理が通用しない文明や知的生命体は、果たして存在するのだろうか。

文化的な差異は、表層に現れる。記数法はその典型だ。メソポタミア人が60進法を用いたように、指の数や慣習の違いで数の表現は変わる。しかし、1は1であり、1+1=2という関係は変わらない。掛け算や割り算、分数、ゼロ、負の数、無理数、虚数、複素数といった概念も、遅かれ早かれ発見されるはずだ。これらは発明ではなく、この三次元宇宙に普遍的に存在する構造だろう。微分積分、三角関数、統計学、そしてフェルマーの定理までも、結局は同じ体系に連なる。排中律もまた、その一つである。

こうした普遍性の話は、漫画『チ。』のテーマとも重なる。同作は科学革命を背景に、人々が新たな真理に目覚める過程を描く。作中に登場する印刷機は、現代のSNSのように知の伝播を加速させる装置として機能している。

この17世紀、オランダにはスピノザというユダヤ人哲学者が登場した。「神は自然そのものである」という彼の思想は、一神教の人格神概念を否定するものだった。共同体の戒律を破ったとされ、1656年にアムステルダムのユダヤ人共同体から破門される。キリスト教世界が大きな変革期にあり、イスラム世界ではオスマン帝国が最盛期を迎えていた時代。ユダヤ教は表舞台では目立たなかったが、商業や学問を通じて人々は世界を飛び回っていた。そんな中で現れたスピノザのような異端者は、時代の息吹を象徴している。

私は「未来ではなく過去に真理がある」という立場だ。

しかし、この考え方は少し皮肉を含んでいるかもしれない。世界中の技術者や研究者は「今より良くしたい」と努力を重ねるが、この発想は「昔は今より悪かった」という前提を含んでしまう。論理的に突き詰めれば、「進化=幸福」と「過去=不幸」は同義になるのだ。

それを受け入れれば、昭和は不幸な時代で、江戸時代は暗黒時代、紫式部の時代は地獄となる。そして未来の人々から見れば、私たちの時代こそが暗黒時代として同情されることになる。だが本当にそうだろうか。過去にも現在にも未来にも、それぞれの幸福は存在するはずだ。

価値基準は時代ごとに異なる。サルトルが未来志向の進歩史観を唱え、レヴィ=ストロースが多様性の中に価値を見いだした論争も、この構造に重ねてみることができる。

結局のところ、人類がどのような道を歩もうと、普遍性と多様性のあいだを行き来しながら、真理を探し続ける営みは変わらないのかもしれない。