私たちの日々のビジネスは、自由で開かれた市場と、法に基づく秩序があってこそ成り立っている。
その背後には、表現の自由、基本的人権、法の支配、そして平和という、民主主義の根幹をなす土台がある。これらは多くの場合「当たり前」のものとして意識されない。しかし、この基盤が揺らげば、経済活動は萎縮し、社会の活力も失われていくだろう。
今回の参院選は、そうした土台の亀裂を感じさせるものであった。表面上は日常が保たれているように見えても、その下では着実に地殻変動が進行しているのではないか。
参政党の伸長は偶然ではない
その変化の象徴が、参政党の着実な伸長である。多くのメディアは同党を「過激」「陰謀論的」と一蹴するが、そうした表層的な評価では、事態の本質は見えてこない。参政党は全国規模で党員組織を拡大し、オンライン・オフライン双方で地道な教育活動を展開し、支持層との関係を築いてきた。
これは一過性のムーブメントではない。理念・戦略・組織が三位一体となった、現代型ポピュリズムの完成形とも言える。その成長の歩みは、むしろ民主主義政党として教科書通りのものですらある。
空白を放置した自民党右派の不作為
参政党の進出を許した最大の要因は、本来その支持層を取り込むべきだった自民党右派の沈黙ではなかったか。保守を掲げながらも、理念を明確に語らず、現場からも距離を取り、安全圏にとどまり続けた。
その背景には、裏金問題をはじめとする構造的な失策があるのだろうが、驕りと緩みがあったことも否定できない。麻生派も高市早苗氏も、この一年ほとんど沈黙を貫いてきた。対岸の火事を見るように、動かず、語らず、問うべき課題を放置した。その結果、構造的な空白が生じ、そこに参政党が滑り込んだ。その責任は極めて重い。
新興勢力の明暗を分けたもの
新興勢力「再生の道」が掲げた理念は、確かにクリーンだった。しかし、組織づくりや選挙戦略の面では脆弱で、“藁の家”のごとく短期間で風に吹き飛ばされてしまった。しかも、掲げた政策は今の有権者にとってはややピントの外れた教育論に傾きすぎていた印象がある。
何が何でも勝ちに行くという執念のない組織に、人々は自らの命運を託そうとは思わない。一方、参政党は感情的レトリックを超えて、“煉瓦の家”のように足腰の強い支持基盤を築いていた。その差が、結果として明暗を分けたのだ。
今回の選挙は、「理念」だけでは政治を変えられず、「戦略」なき政党は脆いという現実を突きつけた。
民主主義的正当性とメディアの責任
もう一つ見逃してはならないのが、参政党が選挙という民主的手続きを通じて議席を得たという事実である。主張の賛否はともかく、有権者の投票によって合法的に選ばれた政治勢力を「民主主義の危機」と断じる言説は、選挙制度そのものの正当性を損なう危うさをはらんでいる。
思想や政策への批判は当然あるべきだ。しかし、「選ばれたこと」自体に疑義を呈するような態度は、かえって民主主義の根幹を揺るがす。
“正論疲れ”とサイレントマジョリティの存在
たとえば今、「愛煙党」が「禁煙に異議あり」と掲げて登場したら、意外と票を集めるかもしれない。現代の公共空間では、「正論」や「善さ」が支配的となり、異論を語ることすら憚られる空気がある。SDGs、多様性、気候変動──。それ自体は否定されるべきではないが、全員が肯定しなければならないような空気は、どこか不自由だ。
参政党は、そうした「語れなかった感情」に、居場所と旗印を与えた。神谷宗幣代表が「アンチの皆さん、ありがとう」と皮肉交じりに語るのは、ある意味で的を射ている。正論で押しつけようとする空気そのものが、参政党のインキュベーターになっていたのだ。
個人的には、こうした右派の台頭に対しては大いに脅威を感じる。しかし、世の中にそうした声を持つ人々がこれだけいたという事実は、重く受け止めるべきだろう。

