今夏の参院選。

なぜ、国民主権や基本的人権を抑制しようとする主張…すなわち、「自由を制限すべきだ」という主張が、これほどまでに支持されるのだろうか。

自由や権利は、本来、守られるべきものである。

国民主権は、民主主義の大前提である。

この原則に異を唱える人は、かつてほとんどいなかった。いたとしても、ごく少数派だった。

だが今、「人権には限度がある」「主権は国家にあるべきだ」と主張する勢力が票を集め、共感され、選挙で結果を出すようになってきている。

これは単なる過激思想の拡大ではない。

むしろ、「なぜそのような主張が選ばれるようになったのか」を、私たちは真剣に考えなければならない。

なぜ「自由」が支持されないのか?

この問いに答えるには、表面的な感情論ではなく、社会構造としての原因を見なければならない。

以下に、支持拡大の背景を四つの視点から整理する。

① 教育と実感の断絶

私たちは、自由や人権の価値を「生活の中で」学んできただろうか。

学校では憲法を習う。しかし、それは教科書の中の知識にとどまり、日々の暮らしや選挙行動と結びつかない。

家庭でも地域でも職場でも、「民主主義」や「合意形成」「他者の違いを尊重する」という文化は根づいていない。

その結果、人権は「一部の人が得をする制度」、国民主権は「建前」、民主主義は「面倒なやり方」と見なされるようになる。

どれほど優れた理念であっても、生きた実感として伝えられなければ、あっけなく放棄されてしまう。

② 社会不安が“秩序”を求めさせる

人は、長引く不安の中で、自由よりも「強さ」や「単純さ」を求める傾向がある。

格差、不安定な雇用、老後の不安、少子化、災害。

「自分は守られていない」という感覚が高まれば、「誰かが得をしている」という感情を抱きやすくなる。

そこに「自由や権利を主張する他者」はノイズとして疎まれ、スケープゴートとして忌避されるようになる。

秩序や家族や伝統を強調する政治的メッセージは、「自分を守ってくれそうな甘い言葉」として受け入れられる。

それが、自由を抑圧するものであっても、である。

③ 既存政治への絶望と空白

ここに、「信じられる政党がない」という政治的空白が加わる。

与党には失望し、野党には期待できない。

「投票先がない」という感覚が、「どうせ誰に入れても変わらない」という虚無感を育てる。

その中で、「断言する人」「敵をはっきり示す人」「言葉が強い人」が信頼されやすくなる。

内容の正しさではなく、怒りと調子の良さが「誠実」に見えてしまう。

その意味で、既存の政党、特に与党の責任は重い。

彼らは、「代替のない政治」という空白を放置してしまった。

④ SNSという“信念の増幅装置”

最後に、現代のメディア環境そのものが、自由を語ることを困難にしている。

SNSでは、長い文章、理屈、立場の調整といった営みが極めて不利だ。

本稿のような文章も、恐らく多くは読み飛ばされるだろう。

一方、「敵を設定する短いスローガン」や「怒りや断言の言葉」は、強い拡散力を持つ。

アルゴリズムはそれを増幅し、似た価値観ばかりが集まる空間(エコーチェンバー)を形成する。

人は「正しいこと」ではなく、「仲間であること」に安心する。

こうして、自由や権利を疑問視する主張が、正論のように定着していく。

げにもおそろしいのは「自覚の欠落」

自由は、誰かが与えてくれるものではない。

権利は、自動的に守られるものでもない。

それらは、信じ続け、選び続けて、はじめて保たれるものだ。

しかし今、自由や権利を疑い、民主主義の制度の中でそれらを放棄しようとする人々が増えている。

しかも、その行動に罪悪感も危機感もない。そこにこそ、最大の恐ろしさがある。

民主主義は、多数決によって自由を手放すこともできる。

だが、その選択が「戻れない選択」であることに、どれほどの人が気づいているだろうか。

自由とは、本来、放っておけば消えてしまう灯火のようなものだ。

私たちは今、それを“投票という正当な手続き”によって、自ら消そうとしている。

このことに、私たちはもっと敏感であるべきだ。