映画『国宝』を、年末特番のような「隠し芸大会の延長」と語るのは違うな…と思ってしまう。もちろん、歌舞伎の所作や構図はしっかり撮られているが、これは芸そのものを見せる映画ではない。

描かれているのは、芸に人生を賭けた人間たちの内面と、その生き方の重さだ。

 両立ではなく、切り捨てて生きる

現代のビジネスやキャリア論では、「両利きの経営」や「ポートフォリオワーク」など、複数の軸を両立する生き方が主流だ。安定と挑戦、家庭と仕事、自分と他者。バランスよくやることが理想とされる。

しかし、この映画に登場する役者たちは、両立という考え方そのものと無縁である。

芸のために他の何かを切り捨て、葛藤しながらも、その道に踏みとどまる。

それが良いか悪いかではなく、そういう生き方が実在するという事実が描かれている。

フロー状態に入り、戻ってこない人たち

心理学者チクセントミハイが提唱した「フロー理論」は、スポーツや仕事などに没頭している状態を説明する。彼は、フローに入る回数や頻度が高い人ほど、その仕事に適職感を持ちやすく、離職率も低くなると述べている。

自分に合った仕事だと感じられるのは、その中で“自分が生きている”と実感できるからだ。

ただし本作に描かれるのは、そうした“やりがい”の先にある姿だ。

役者たちはフローに入るというより、フローの奥に留まり、日常や自我との境界を失いながらも芸にとどまり続けている。

演じることが仕事ではなく、もはや「生きる形」そのものになっている。

虚構であることが、リアルを超えてくる

ある歌舞伎関係者が「この映画はリアルではない(ウソだ)」と語ったという。たしかに、本作はフィクションだろう。現実と異なる設定も多々ある。

だが、リアルかどうかよりも、観ていて本当に“生きている”と感じる瞬間があるかどうかの方が大事だと思う。

この作品には、それがある。

演技なのに、息づかい、目線、沈黙に“本物の人間”が透けて見える瞬間がある。ポップコーンを食べる暇を与えない…と評されている方が多いのもわかる。息を呑むことに忙しく、ポップコーンを食べるどころか、お茶を飲むのも忘れてしまうシーンの連続であった。

それが虚構の力だし、映画という表現の強みでもある。

正史ではなく演義、だから描けるものがある

この点で思い出すのは『三国志』だ。

史実を重んじた陳寿の『正史』と、そこから想像力をふくらませた羅貫中の『三国志演義』。演義は虚構だが、正史にはない人間の美しさや愚かさ、物語の面白さが詰まっている。

趙子龍が長坂坡で敵陣を駆け抜ける場面。槍の動きを「梨の花が散るようだった」と描写したくだりがある(井波律子氏も触れている)。これは史実ではない。だが、心に残るのはむしろこの文学的な描写のほうだろう。

『国宝』も同じだ。

歌舞伎そのものが「正史」だとすれば、本作はその「演義」にあたる。

虚構だからこそ描けたことがある。虚構であることが、むしろ本作の価値なのだ。

白黒ではない、入り混じる感情と状況

この映画の中には、血縁と才能、伝統と革新、役と素の自分、仕事と家庭といった多くの対立軸が出てくる。だが、それが綺麗に整理されているわけではない。

むしろ、それらが混ざり合っていく中で、本人たちにも境界がわからなくなっていく。

だから観ていて落ち着かない。けれど、それが妙にリアルに感じられる。

結論=これは最高の虚構だ

『国宝』は、歌舞伎の技術を見せるための作品ではない。

歌舞伎役者という人間が、芸とともにどう生き、何を失い、何を選び取ったかを描いている。

合理的な働き方やバランス思考からは大きくはみ出しているが、そういう生き方が、確かにあるということを静かに突きつけてくる。

そしてこれはフィクションだ。けれど、フィクションであるからこそ、現実では見えにくいものを映し出せた。

演じることは、生きること…

そんな思いが、観終わったあとにもずっと残る映画だった。