地球規模の課題に立ち向かうために掲げられたSDGs(持続可能な開発目標)は、今やあらゆる国家、企業、宗教、教育機関がその理念を口にする時代となった。

そのなかで、倫理の象徴として最も強くこの目標を支えている存在の一つがローマ・カトリック教会である。現教皇フランシスコは、「共通の家を守る責任(Laudato Si’)」を掲げ、気候危機・難民問題・貧困の連鎖といった地球的課題に対して、宗教の垣根を越えた道義的訴えを続けている。その発信力は国際政治すら動かすほどであり、国連やG7の場でも繰り返し引用される。

一方、日本に目を向ければ、政治の中枢にある自民党政権も政府方針としてSDGsを全面に掲げている。「誰一人取り残さない社会」「女性が輝く日本へ」といったスローガンが政策文書に躍る。国際会議や広報誌では、SDGsへの取り組みを精力的に語る政治家の姿が映る。

しかし、ここで、決定的な問いが生じる。

その組織は、自ら語る理想を、まず自らの制度で体現しているのか。

率先垂範の不在

カトリック教会においては、2025年の教皇選挙(コンクラーベ)に参加した枢機卿の中に女性は一人もいなかった。そもそも教義上、女性は司祭になれない。司教や枢機卿、教皇といった上位聖職にも就けない。これは信仰の内容にかかわる厳格な教義であり、教会自身が「変更できない」としてきた歴史的伝統である。

日本の自民党政権も似た構造を持つ。2023年時点で女性閣僚は過去最多とされながら、わずか5人。衆議院における女性議員の割合は依然として10%台にとどまり、OECD諸国では下位に沈む。形式上の制度は整っていても、実際には候補者擁立や政党内人事の中で女性が登用される仕組みは整っていない。

いずれも、ジェンダー平等を唱えながら、自らの中枢には女性を置かない組織である。

理念を語ることと、制度で示すこと

カトリック教会が発信する「貧者の声を聞け」「環境を守れ」という道徳的メッセージは強く、美しい。自民党が掲げる「家族」「伝統」「連帯」といった社会理念もまた、一定の説得力を持つ。

しかし、それが自らの制度に反映されていないならば、ただの演説に過ぎない。

SDGsの本質は、制度・構造のレベルでの変革である。目標5「ジェンダー平等」、目標16「公正で包摂的な制度」、目標10「不平等の是正」…いずれも、具体的な実行なしに満たされることはない。

自らを律することなくして、他者に倫理を語ることはできない。

「語る資格はあるか?」

SDGsは法的拘束力を持たない。ゆえに誰が語ってもいい。しかし、「誰が語るべきか」「誰の言葉が届くべきか」となると話は別だろう。

カトリック教会も自民党政権も、率先垂範という最も基本的な倫理実践を果たしていない。自らの制度を変えぬまま、世界に倫理を説いている。その姿は、もはや「導き」ではなく「自己免責」である。

そしてこの構造は共通している。理念を語ることで、自己変革の責任から逃れている。

 

 

率先垂範とは、演説の巧みさではなく、制度の骨格で示されるべきである。

教会も政権も、自らの壇上に女性を招かず、意志決定を透明にせず、それでなおSDGsを語ろうとする。

理念は行動で証明されなければならない。

もしSDGsを語るなら、まずは壇上の半分を譲ることから始めるべきである。