みなさんはこのゴールデンウィークをいかがお過ごしだろうか。
最終日の今日、私は、先日日本テレビで放送された映画『君たちはどう生きるか』の録画を視聴してみた。
封切り当初はあえて距離を置いていたこの作品だが、ようやく観ることができた。そして、じっくりと観た今、はっきりと言える。
これは、宮崎駿が自分の創作人生に“けり”をつけるために撮った、極めて私的かつ構造的な物語である。
ディズニーも関わらず、日本テレビも口を出さない。
宮崎監督が好きに、のびのびと作った作品であることは、一瞬で伝わってきた。
だからこそ、この映画に登場する“父親”の描き方が、非常に特異かつ重要なのだ。
“二人の父”というモチーフが意味すること
まず本作で明確なのは、「父が二人いる」という構造だ(なお、本作には、母親も二人登場するが、本稿ではこの件は割愛する。)。
主人公・牧真人の実父は、軍需工場の経営に明け暮れる人物。息子と心を通わせる描写は乏しく、再婚も事後報告。
情緒的には不在であり、父ではあるが、父性を欠いた存在だ。
一方、塔に登った真人が出会う“大叔父”は、創造の塔を築き、その継承者を真人に託そうとする人物。
血縁的には遠いが、父性の機能をフルに果たす“もう一人の父として描かれる。
この「父が二人いる」という構造は、日本アニメ史を通観しても、実は極めて稀だ。
正確に言えば、この構造が明確に物語の中核に据えられた作品は、本作と『機動戦士ガンダム』(1979)だけである。
アムロ・レイにも“二人の父”がいた
ガンダムにおいて、アムロ・レイは実の父ティム・レイに対して疎外感を抱いている。
彼は地球に取り残され、技術と開発にしか関心のない父の背中に冷たさを覚えている。
その一方で、敵側に登場するランバ・ラルは、アムロにとって決定的な影響を与える“他者の父性”を体現する存在だ。
ラルは、自らの信念と覚悟、部下への思いやりを通して、「こういう男になりたい」と少年が直感する“もうひとりの父”として立ち現れる。
この“二重父性”の構造は、ガンダムと『君たちはどう生きるか』のみに共通する、極めて特異で象徴的な装置である。
両作の主人公は、実父の欠落を、他者の父性で補い、最終的には誰の後も継がず、自分の道を選ぶ。
この「継がない選択」こそが、次の論点…日本アニメにおける“遺産承継”の変遷へとつながっていく。
かつてアニメは、継ぐことを誇りとした──『マジンガーZ』
1972年放送の『マジンガーZ』では、主人公・兜甲児が祖父から光子力研究とロボット=マジンガーZを受け継ぐ。
甲児はそれを当然のごとく引き継ぎ、操縦し、守り、戦う。
ここには承継をめぐる葛藤は一切存在しない。
むしろ、「継ぐこと」はヒーローになるための条件であり、誇りであり、責任であり、未来への希望だった。
その後のシリーズ群では、甲児は光子力の知的財産を活用して社会的成功を収め、大富豪になった姿すら描かれている。
この世界観には、技術と遺産を継げば、力と成功が手に入るという“成長神話”が横たわっている。
高度経済成長期の精神と、マジンガーZの継承美学は、完全に一致していた。
『バビル2世』──継承が“選択”になる
一方で、こうした“無邪気な継承”を半ば否定する作品も一方には存在した。
転機となったのが、横山光輝の『バビル2世』(1971)だ。
バビル2世は、先祖バビル1世からバベルの塔、超能力、そして3つのしもべを受け継ぐ“正統な継承者”だが、
その力は“支配”のためではなく、“守るため”に用いられる。
彼はその資産をどう使うかを自ら選ぶのであり、継承は自動ではなく、葛藤と意志決定を伴う行為として描かれるようになる。宿敵ヨミを倒したあと、バビル2世は受け継いだ遺産を凍結する道を選んでいる。
ここから、日本アニメにおける「承継」の描き方が明確に変化する。
以後の主人公たちは、遺されたものを自らの意思で選び取る必要が出てくる。
ボトムズと“神の拒否”──継がないという決断
1983年の『装甲騎兵ボトムズ』では、キリコ・キュービィーという存在が描かれる。
彼は“異能生存体”として、世界の理を越えた存在となり、
物語の終盤では“構成者=新たな神”になる資格を与えられる。
だがキリコはそれを拒否し、神にはならず、“ただの人間”として生きる道を選ぶ。
これは『君たちはどう生きるか』と完全に重なる構図である。
真人は、大叔父から塔の構成を託されながら、それを拒否する。
「自分の世界に戻る」と言って、継承の階段を降りていく。
もはや継ぐことは美徳ではなく、拒否することにこそ、主体性と成熟の意味が込められるようになった。
塔とはなにか──“ジャパニメーション”そのものとしての象徴
『君たちはどう生きるか』に登場する塔は、単なる異世界装置ではない。
あれは明らかに、日本アニメという巨大な文化遺産そのものの象徴である。
塔は崩れかけ、しかし創造が積み重なっている。
そこに棲む者たちは、過去と死と夢の中で漂いながら、次の構成者を待っている。
そして今、その塔の前に立たされた少年は、「継がない」ことを選んだ。
継がないことで、少年は大人になる
『君たちはどう生きるか』が描いたのは、
少年が二人の父を見て、どちらの道も選ばず、自分で選んだ道を歩む物語である。
アムロ・レイもそうだった。実父ティムとも、宿敵ラルとも違う道を進んだ。
キリコ・キュービィーも神になる道を拒んだ(あ、キリコは少年ではないけれど😆)。
バビル2世も、バベルの塔の主人にはならなかった。
かつての「継承は正義」から、「継承は選択」へ、そして今、「継承しない自由」へ。
それが、50年にわたる日本アニメが辿ってきた、遺産と父性の物語である。