私が住む浦和には、須原屋書店という書店がある。私も子供の頃から通い、慣れ親しんできた。この書店は単なる本屋ではなく、浦和の街の文化を形作る存在であり、長い歴史を持つ。しかし、その起源をたどると、単なる地域の老舗書店ではなく、日本の出版文化を支えた書物問屋の流れを汲むことがわかる。
現在放送中の NHK大河ドラマ『べらぼう』 では、江戸時代の書物問屋 「須原屋市兵衛」 が登場し、里見浩太朗氏 が演じている。須原屋市兵衛は、江戸幕府公認の大手版元であり、学問書・往来物・儒学書などの刊行を手がけた。
ただし、ここで重要なのは、「須原屋市兵衛」は一人の特定の個人を指す名前ではなく、代々襲名された商号(屋号)である という点だ。江戸時代の商家では、当主が代替わりすると、屋号としての名前を継承するのが一般的だった。したがって、須原屋市兵衛も、江戸時代を通じて何代にもわたり受け継がれてきた書物問屋である。
また、浦和須原屋書店は、須原屋市兵衛の直系ではない。浦和須原屋の創業母体は、江戸の須原屋一族の一つである 「須原屋伊八」 の流れを汲むものだ。須原屋市兵衛との間に直接の継承関係はないが、同じ須原屋一族として、出版・書籍販売の文化を受け継いでいる。
須原屋茂兵衛を始祖とする須原屋一族の広がり
須原屋の歴史は、江戸時代初期、須原屋茂兵衛 によって始まったとされる。茂兵衛は、江戸の日本橋通油町(現在の中央区)に店舗を構え、書籍の販売を開始した。江戸時代の出版業は、当初、京都・大坂が中心だったが、江戸の都市化に伴い、次第に江戸でも書籍販売が発展していった。
茂兵衛の事業は成功し、須原屋の名は広がっていく。江戸、大坂、京都の主要都市に拠点を持ち、一族は各地で書籍販売・出版業を営むようになった。その結果、須原屋市兵衛、須原屋伊八、須原屋茂三郎 など、須原屋を名乗る書籍業者が複数登場し、それぞれが独自の出版・流通ネットワークを形成していった。
須原屋市兵衛と蔦屋重三郎──出版文化の発展と競争
江戸の出版業界では、須原屋市兵衛と蔦屋重三郎 の関係も興味深い。蔦屋重三郎は、黄表紙(大衆向けの絵入り小説)や浮世絵の出版を手がけ、喜多川歌麿や葛飾北斎といった芸術家たちを世に送り出した人物である。
一方の須原屋市兵衛は、学問書・往来物(寺子屋の教科書)・儒学・国学書などを刊行し、江戸の知識層に広く影響を与えた。両者は、出版業界で異なる領域を担っていたが、いずれも当時の知的活動の中心に位置していた。
特に須原屋市兵衛は、幕府の公認を受けた書物問屋 であり、儒学や法制に関する公式な出版物を扱うことが多かった。このため、庶民文化を推し進めた蔦屋重三郎とは対照的な役割を果たしていた。とはいえ、江戸の出版文化はこうした学問系・大衆系の両輪で発展 したともいえる。
須原屋市兵衛の幕末・明治への変遷
幕末になると、日本は西洋の知識を積極的に受け入れるようになり、須原屋市兵衛も西洋書の翻訳出版に関与し始めた。特に、医学・科学・軍事関連の書籍が求められ、それに応じた出版が行われた。
しかし、明治維新後、江戸幕府の崩壊とともに、書物問屋制度も大きく変化した。江戸時代には、幕府の許可を得た問屋だけが出版・販売できる仕組みだったが、新政府は出版の自由化を進め、多くの旧書物問屋が廃業を余儀なくされた。須原屋市兵衛も例外ではなく、江戸時代の体制下で繁栄した書籍業者の多くが姿を消していった。
須原屋伊八と浦和須原屋書店の誕生
こうした激動の時代の中、須原屋一族の一部は新たな書籍業の道を模索し、明治9年(1876年)、浅草の須原屋伊八が貸店舗として創業 したのが、現在の浦和須原屋書店の始まりである。
須原屋伊八もまた、江戸期の須原屋の分派の一つであり、学問書や実用書を取り扱っていた。その流れが埼玉に根付き、須原屋書店として地域に定着したのである。
つまり、浦和須原屋書店は須原屋市兵衛の直系ではないが、須原屋一族の出版文化を継承する存在である ということになる。
須原屋書店は、単なる地域の老舗書店ではなく、江戸時代から続く「知のインフラ」を受け継ぐ存在である。
今、大河ドラマ『べらぼう』を通じて須原屋市兵衛が注目されることは、歴史の一つの転換点を私たちが振り返る機会でもある。浦和須原屋書店が今も営業を続けていることこそ、江戸時代から受け継がれてきた知の文化が生き続けている証なのである。