「語学の勉強をする暇があったら、AI翻訳を使って海外論文を読みまくれ」——大学教員の友人が学生にそう指導していると聞いて驚いた。
語学はじっくり時間をかけて学ぶもの、というのが従来の常識だった。だが、今は生成AIの進化によって、翻訳ツールを使えば数秒で海外の情報にアクセスできる。
語学を学ぶことが目的ならば、それはそれで良い。しかし、多くの人にとって語学はあくまで「手段」であり、「知識を得ること」が目的のはずだ。ならば、AI翻訳を活用して、最短で目的を達成するのが最も合理的ではないか。
この議論、どこかで聞いたことがないだろうか?「出社 vs. 在宅勤務」「ガラケー vs. スマホ」の議論と、構造がまったく同じなのだ。
「メリットの強調」vs.「正味価値の議論」
出社か在宅勤務か——この議論は、企業の働き方を巡って何度も繰り返されてきた。
出社派は、「直接顔を合わせることで生まれる雑談」「職場の空気感」といったメリットを強調する。だが、在宅勤務による「通勤時間ゼロ」「生産性の向上」という圧倒的な効率性については触れないことが多い。
議論が行き詰まると、「でも私は出社の方が好きだな。在宅勤務は馴染めない」といった個人の感覚論に落ち着く。
10年ほど前には、「ガラケー vs. スマホ」の議論も同じだった。スマホ派は、圧倒的な利便性や機能の拡張性を主張し、ガラケー派は「ボタンが押しやすい」「バッテリーが長持ちする」といったメリットを挙げていた。
だが、結果として「総合的に見ればスマホの方が圧倒的に優位」という事実が明らかになると、ガラケー派は「でも私はスマホは苦手だから」と言い出すようになった。
こうした姿勢には、一つの共通点がある。人は、手段そのものに愛着を抱きがちなのだ。
語学学習も「手段への愛着」ではないか
語学学習も、本来は「異なる言語で知識を得る」ための手段に過ぎない。にもかかわらず、語学そのものに特別な価値を見出し、それを続けること自体が目的化してしまっている人も多い。
昭和のロボットアニメに登場するヒーローたちは、操縦するロボットに深い愛着を持っていた。『マジンガーZ』の兜甲児や『鉄人28号』の正太郎少年にとって、それは単なる道具ではなく、自分の分身であり、共に戦う相棒だった。つまり、本来は戦うための「手段」であるはずのロボットに、彼らは強い感情を抱いていたのだ。
語学学習に対するこだわりも、これと似た構造を持つ。外国語を学ぶこと自体に喜びを感じる人もいれば、習得までの努力を「自分の価値」として捉える人もいる。確かに、言語は単なる翻訳では伝えきれない微妙なニュアンスや文化的背景を含む。たとえば、日本語の「もったいない」や「懐かしい」といった言葉は、直訳が難しい。その言葉を自分で使いこなせることに、価値を見出す気持ちも理解できる。
しかし、それは「ガラケーのボタンが押しやすいから」と言ってスマホを拒むのと、どこまで違うのだろうか?
アムロ・レイのように、手段を割り切るべき時代
一方、機動戦士ガンダムの主人公アムロ・レイは、モビルスーツ(ロボット兵器)に特別な愛着を持たなかった。彼にとってガンダムは、あくまで戦うための道具。最終回で頭部を吹き飛ばされても気にせず、半壊しても乗り続けた。必要があれば新しい機体に乗り換えることも厭わなかっただろう。その姿勢は、「手段はあくまで目的達成のためのもの」という合理性を象徴している。
翻訳技術がここまで発展した今、求められているのは「兜甲児型」ではなく「アムロ・レイ型」の姿勢ではないか。
結論:「慣れ親しんだ手段」を捨てる勇気
私たちは「学び方」に関しても、変化を受け入れる必要がある。
どの議論も、「伝統的な方法のメリットの強調」と「新しい方法の圧倒的な効率性」が衝突する。そして、最終的には「総合的に価値が高い方」が選ばれてきた。これが歴史の流れである。
今後、AI翻訳の精度がさらに向上すれば、語学を学ぶ必要性はますます薄れていくだろう。それでもなお「語学は学ぶべきだ」というのであれば、それが「効率的な選択」であることを証明しなければならない。
なお、私自身は趣味として英会話の勉強を続けている。趣味の領域では生産性や効率は無関係であり、学ぶ過程そのものを楽しむことにも価値がある。そのため、私はそれを無駄だとは思わない。
しかし、手段への愛着と、目的達成の合理性は別の話だ。AI翻訳という新しい手段がある今、語学学習にこだわるのは「ガラケーにこだわる」のと同じなのか、それとも「言葉の本質を深く理解するために必要なこと」なのか。
それを見極め、時には「慣れ親しんだ手段」を手放す勇気こそが、これからの時代に求められているのではないだろうか。