マルクス・アウレリウスの『自省録』(神谷美恵子訳 岩波文庫)読了。
パスカルの『パンセ』同様、断片から何かを読み取り、学びとるのは難しいものである。
しかし、頑張って読み進めていくと、いろいろなことを発見することができる。
重複が多く、同じことを繰り返していると批判されることも多い本書だが、それゆえ、「著者が何度も繰り返していることが、著者のこだわりであり、著者が大切にしていた信条なのだろう」と気づくことができる。
『生きがいについて』の神谷美恵子の翻訳も良い。50年前の翻訳とは思えない読みやすい文章である。

マルクス・アウレリウスは、「実践の皇帝」「求道の皇帝」「メタ認知の肯定」という3つの側面を持った皇帝であるように感じた。
以下、この3つの側面に基づき、読後の感想を述べてみたい。

1.「実践の皇帝」

(1) 哲人政治の実践者(訳者序)

翻訳者の神谷によれば、マルクス・アウレリウスの哲学(後期ストア派)には新規性はほぼない。エピクテトスのコピーであるという。それならば…とエピクテトスの著書を読んでみようと思ったが、岩波文庫の中古本は価格が高騰。上下巻で1万円くらいする。図書館ででも借りてくるしかなさそうである。

後期ストア派の代表者としては、もうひとりセネカが有名であるが、マルクス・アウレリウスとセネカとは、さまざまな点で対照的である。

(2) 修辞への忌避(1巻7章)

マルクス・アウレリウスは幼い頃より多くの師を持っている。神谷によれば、彼が最も敬愛する師は、修辞学の専門家であったにもかかわらず、彼は、そこから脱却し、修辞学を否定している。

(3) 全力で生きることへの讃歌

本書の基本姿勢は、「全力で生きることへの讃歌(全力投球型人生ノススメ)」である。全編を通じてさまざまな表現で、繰り返し、このことが述べられている。
① 機会損失への忌避(2巻4章)
② 限りある生の中での全力投球の推奨(4巻17章)
③ 使命感を持った生き方の推奨(5巻1章)
④ 全力投球型人生を送ることができれば死を恐れることもなくなるという主張(12巻35章)

(4) リアリストとしての側面

彼はプラトン政治の実践者でありながら、プラトンの理想がすべて実現しなくてもよいと述べ、部分的な成功や小さな一歩であってもそれをよしとする姿勢を評価している。小さな成功を肯定する一方で、実践を行わず、方法論だけを論じることは愚かであると批判している。
① プラトン主義の部分的実現の肯定(9巻29章)
② 方法論追求オタクへの戒め(10巻16章)

(5) 現在時制の重視

マルクス・アウレリウスの思想の特徴は「今(現在)を生きる」。過去を振り返るのではなく、未来を予想するのでもない。ただひたすら、「今(現在)を生きる」ことに全力投球すべきだと述べている。人生の最後までひたすら「今(現在)」のことを考え続け、それ以外のことを考えるのは愚かであるとさえ述べている。
① 人生の長短を語ることの無意味さ(2巻14章)
② 未来より現在(7巻8章)
③ 現在以外のことを考えることの愚かさ(8巻36章)

(6) 現在を重視することの意義

常に全力投球している人生は一種の慣性力を持っており、不意打ち(天災・不可抗力)にも動じないし、不慮の死などを迎え、天寿を全うできなくても悔いが残らないと考えている。
① 現在のことのみを考えることの意義・価値(8巻44章)
② 全力投球型人生は不意打ちにも動じない(11巻1章)
③ 全力投球型人生ならば、途中で終焉を迎えても悔いが残らない(11巻36章)
④ 全力重視型人生の特徴(7巻69章)

2.「求道の皇帝」

マルクス・アウレリウスは「実践の皇帝」であると同時に、「求道の皇帝」でもあった。ただ黙々と「今(現在)を生きる」だけではなく、常に人としてのあるべき姿を自問自答し続けていた。哲学者ならば当たり前…であるが、ローマ皇帝である以上、カッコつけは許されない。「言行不一致」が晒されれば、臣下からも貴族・平民からも批判されてしまう。我々は時折、専門家や評論家に、「だったらそれ、やってみてくださいよ」と意地悪を言うことがあるが、マルクス・アウレリウスは、哲学者としてはもっとも「やりにくいポジション」で、道を置い続けたのである。

(1) 尊大さに対する忌避

① 「能ある鷹は爪を隠す」の先駆者(1巻9章)
② 礼節の重視(8巻30章)
③ 反面教師としてのカエサル(6巻30章)

 

(2) 人間としての道の飽くなき追求

① 雑音に惑わされない生き方の推奨(7巻68章)
② 杜撰な生き方の禁止と余裕を持つことの重要性(8巻51章)
③ 「偏食」的欲求の忌避(10巻35章)
④ 情けは人の為ならず(11巻4章)

(3) 武器になる哲学

「求道の皇帝」が重視したキーワードが「哲学・理性(指導理性を含む)・精神(魂)」であった。彼は、大真面目に、哲学は武器になると考えていたようである。また、理性を持つことができれば、他に必要なものはない…とまで述べている。マルクス・アウレリウスにとって、理性を具備することは、人生の必要十分条件であったようである。
① 武器になる哲学(2巻17章)
② 人生の必要十分条件としての理性(4巻13章)

(4) 肉体に対する軽視

① 肉体は精神のオマケ(4巻41章)(6巻29章)(12巻15章)
② 精神と現在、双方の重視(6巻32章)

(5) 哲学と政治との関係(6巻13章)

哲学者を目指していた彼が、心ならずも皇帝になった後も、常に心は哲学にあったようで、政治(宮廷)を「継母」、哲学を「実母」に喩え、自らの後ろ髪を引かれる思いを語っているのは印象深い。

3.「メタ認知の皇帝」

本書を読んで最も強く思ったのが、「この皇帝は常にメタ認知に徹して生き続けた」ということである。メタ認知などという言葉がなかった時代であったにもかかわらず、彼の視点は、「広く」、「多様で」、そして、「高い」。皇帝という地位にあったとは思えないくらい、隣人(他人)の意見に耳を傾ける姿勢を持ち続け、自らへの諫言を歓迎し続けた。他人の心に中に視点を移す…という手法は、ロジャーズの来談者中心療法を思わせる。視点が「広く」「多様で」「高い」からこそ、隣人(他人)の失敗にも寛容でいることができる。失敗者を反面教師として捉え、高く評価しているからであろう。この視点の延長上に、世界市民主義(コスモポリタニズム)がある。ローマ人だけがすべてだとは考えず、異民族や蛮族を含めての世界のあり方、人の生き方を考え続けたのだろう。

(1) メタ認知(10巻10章)

(2) 他人視点の尊重

① 隣人理解の意義(4巻18章)
② 他人の指摘を受け入れる姿勢の意義(6巻21章)
③ 来談者中心療法的な接し方の推奨(6巻53章)
④ 失敗した隣人・同胞への寛容(7巻23章)(9巻11章)(10巻4章)

(3) 世界市民主義

① 世界市民主義(6巻44章)
② 高い視点を持つことの意義(9巻30章)

このメタ認知は、変化に対する受容にもつながっている。変化を「面倒なこと」と考えるのではなく、自然なものとして受容することの大切さを説いている。人が忌み嫌う「死」についても単なる変化の一つだと捉え、平常心を保とうと努めている(実際には自らの子供の多くが夭折した経験との葛藤があったのだろう)。
事象の発生と損害の発生とを分離する考え方は、現代のアドラー心理学における「課題の分離」とも共通するものである。

(4) 変化に対する認識(7巻18章)(11巻35章)

(5) 死に対するメタ認知(9巻3章)(9巻35)(11巻34章)

(6) メタ認知的欲求の推奨

① 事象の発生と自らの損害の分離(8巻49章)
② 高次元の祈り(9巻40章)
③ 主観の放棄(12巻25章)
④ 復讐における視点の変更(6巻6章)

いかがだったろうか。わずか200ページ強の文庫本なのだが、その中身はなかなかに濃厚である。
2千年前に、すでに、こういった境地に立っていた方がいることを考えると、近現代の哲学・心理学というのは、その焼き直しに過ぎないのではないか…とふと思ってしまう。