前回に引き続き、パスカルの『パンセ』に関する読後の感想です。
ほぼ、私の読書メモ、そのまんまです。
(なお、今回、私が手にしたのは、最も訳の新しい岩波文庫版です。)

パスカルは当初科学の道を進み、次いで、人間に研究の対象を移した。その後、キリスト教へとのめり込んでいく。つまり研究対象は、神へと変化したのである(断章687等)。『パンセ』も、「キリスト教護教論』の準備稿として書かれたものである。

パスカルの哲学、『パンセ』の記述を一言で述べれば、次のようになるだろうか。

① 合理的な「科学の精神」と、直観による「繊細の精神」を分離・独立し、両立させた

② 人間の「むなしさ」と「偉大さ」の両極を、対象的に指摘した

③ 偉大さの根源を「思考」としつつ、キリスト教を救済手段として擁護した

 

1.人間のむなしさ

『パンセ』では、繰り返し「人間のむなしさ」について述べられている。有名なのは、クレオパトラの鼻(断章413)。最近では、複雑系の科学やバタフライ効果を説明する際の比喩としても用いられる。本書では、将来を見通すことのできない人間のむなしさの例として出てくる。人間の予想の限界を痛感する今日、突き刺さる一言である。

「気晴らし」の功罪も、「人間のむなしさ」が発端となっている。人の不幸は、何もしないこと(鹿島先生は「無為」と表現していた)である(断章136)。それゆえ、何かをしてなければならなくなり、気晴らしが必要になるという。

これに対し、パスカルは、「みじめさのうちにある私たちを慰めてくれる唯一のもの、それは気晴らしである」(断章414)と、気晴らしをヨイショしておいて、その直後に「気晴らしは時間をつぶさせ、知らず知らず死に至らしめる」(同章)と一気にオトしている。彼は気晴らしを必要悪ととらえていたのだろうか。それにしても、現在の自粛生活では、気晴らし一つ見つけるのも一苦労である。皆さんのストレス解消法を是非お伺いしてみたい。

また、自分にとってのいかなる楽しみも他人と分かち得なければ「味気ない」というモンテーニュの意見に、パスカルは同意している(断章74)。彼はこれに対し、「人間が人間を尊重していることのしるしだ」とコメントしている(同章)。このフレーズは、コロナによる自粛生活をしている我々には心に刺さる。特に、新たな赴任地で知人・友人のないままに何週間も「軟禁生活」を余儀なくされている方々のことを思うと、心が痛む。

 

2.自己愛

人間のむなしさの最たるものとして、パスカルは「自己愛」を挙げている(断章62、627等)。「虚栄は人の心に深く錨を下ろしている」(断章627)という表現は実に的を射ている。人前で話せば褒められたいし、本を読めば自慢したくなる。

パスカルは、「人間の最大の卑しさは名誉の追求にある」(断章470)と批判している一方で、自身にも自己愛があることは認めている(断章627)。NHK「100分 de 名著」の番組第1回において解説の鹿島茂先生が、「当時のモラリストは、他人批判をしつつ、自己批判もできた人たちのこと。現代のモラリストとはそこが違う(現代のモラリストは他人批判ばかりしている)」と仰っていたが、そのことを、読みすすめると実感できると感じた。

自己愛の強さについては、「世界中の人々に知られたい。いやそれどころか、私たちの死後にやってくる人々にも知られたいと願うほど強い」(断章120)と述べているが、これも、我々現代人にとっても耳の痛い言葉である。

パスカルは、自己愛の危険性についても論じている。自己愛は功名につながるが、これは際限なくエスカレートしていくものである。「どんな信念でも生命以上に大切なものとなりうる」(断章29)、「功名は実に甘美なもので、どんな対象に結び付けられようとも、たとえそれが死であろうとも愛される」(断章37)等である。これらの断章は、行き過ぎた「命を惜しむな、名を惜しめ」の恐ろしさについてのパスカルからの警鐘である。

 

3.人間の偉大さ

パスカルは精神が豊かになれば、独創的な人間がたくさんいることを発見できるとしている(断章510)。これは共感できる。自らの視座が高くなればなるほど、素敵な友人を見つけることができるという経験は誰しもあるのではないだろうか。

パスカルの別な著作では、「制度上の偉大さ」すなわち「身分」に対しては尊敬を払う義務はないが、「自然本性上の偉大さ」すなわち「精神」には敬意を払わなければならないことが明示されている(『大貴族の身分に関する講話』第2)。大貴族の友人が多かったパスカルだが、彼らに対しても手厳しい発言が多かったのかもしれない。

このように、「精神の探求」を重視する発言は『パンセ』にも多くみられる。過去の天才たちを賛美する断章309でも、「彼らを見るのは目ではなく精神だ」としている。

思考を重んじる断章も多数存在する。有名な「一本の葦」「考える葦」(断章200)の他にも、「思考を欠いた人間を思い描くことはできない。そんなものがあるとすれば、石ころか獣だろう」(断章111)で述べている。思考が人間の偉大さを作り出す(断章759)という点こそが、彼の根本思想だったのであろう。

 

4.力と意見

最近の政府と国民のやり取りを見ていると、「この世の女王は力だ。意見ではない。しかし意見は力を用いる女王である」(断章554)が妙に予言めいているように感じる。

「力」とは権力者あるいは独裁政治・専制政治のことを、「意見」とは国民あるいは民主政治を示しているように感じるからである。「意見は力を用いる女王である」とは、数百年後の民主国家の到来を予感していたのだろうか。おそるべし、パスカル!

彼は、「力を書いた正義は無力だ。正義を欠いた力は圧政だ」(断章103)とも述べており、絶対王政下のフランス人(彼はほぼルイ14世と同時代人である)としては、かなり稀な物の考え方をしていたのかもしれない。
保守的なカトリック信者という側面とはまた別な一面を持っていたのかもしれない。

5.善悪

善悪について述べている断章も多い。
その中では、悪は無数に存在するが、善は唯一無二のものであるという一節は興味深い(断章526)。物事を考えるときに、「物権的(同時に成立し得ない)」のか、「債権的(同時に成立しうる)」のかという区分は私もよく使うのだが、善悪にこれをあてはめたことはなかった。なるほど、正しいこと(正義・真理)は一つだと考えると、間違っていること(悪・虚偽)は無数に存在するという主張には一理ある。

人間は天使になろうとすると獣になってしまう(断章678)という主張も、善悪に関するものである。ボランティアで始めた仕事にも拘らず、途中から報酬をもらえるようになったりすると、途端に「いくらですか?」と訪ねてしまった自分を思い出した。デシのいう内発的動機づけ(天使的動機づけ)は、容易に外発的動機づけ(獣的動機づけ)に駆逐されるという理論とも一致するフレーズである。

6.執筆と説得

執筆の仕事をする際に、心がけたいと思ったのが、本書の関連書である『幾何学的精神』第2部「説得術について」に登場する、「最良の書物とは、読者が自分でもこれなら書けたかもしれないと思うような書物だ」という一節である。
以前に人気ブロガーの方のお話を聞く機会があったが、その際、「あ、これくらいのことなら私でも書けるぞ」と思われるくらいの内容のほうがウケるとおっしゃっていたのを思い出した。内容が簡単だ、陳腐だと、ダメ出しされるということは、それだけ多くの読み手が存在することの裏返しである。人気商売は批判されてなんぼのものだ…というのは、昨今の炎上商法の基本精神である。

執筆関連でもう1つ、なるほどと思ったのが、「著作を書いていて最後に見つかるのは、冒頭に書くべき事柄だ」という一節。小学校の頃、作文はきちんと章立てを考え、構成を考えてから、書くように…と指導を受けたが、未だにこれが苦手である。
私の場合、書きなぐった結果、推敲を重ねるうちになんとなく全体像が見えてきて、形が整ってから、タイトルだの前文だの「冒頭に書くべき事柄」がようやく決まることがほとんどである。

説得術についての記述も多い。
我々は他人が思いついた理由では納得できないが、自分自身で見出した理由によって納得する(断章737)という主張も頷ける。コンサルタントはついつい自分の主張(得てしてそれは正論であることが多い)でクライアントを納得させることが多いがこれは限界がある。

ロジャーズの来談者中心療法や各種コーチング技術では、答えを相手の心の中に見出すことをよしとする。この考え方の源流はこれまでフロイトが最も古いと思っていたが、そのはるか以前にパスカルが主張していたとは知らなかった。

7.敵対者

NHKの番組でも取り上げられていたデカルトとの不仲説。「デカルト、無用にして不確実」(断章887)とあるが、若い頃は親交があったようである。

『パンセ』において、デカルト以上に公然と批判されているのは、イエズス会と無神論者・自由思想家である。

カトリックの経験な信者であったパスカルにとって、神の証明をいい加減に行ったデカルトは許せなかったのだろうし、イエズス会は無用な改革(旧教改革)だったのかもしれないし、神を信じない無神論者・自由思想家はもってのほかの存在だったのだろう。
無神論者(汎神論者ともされますが)の急先鋒といえば、スピノザ[1632〜1677]がいる。彼は、パスカルと同時代人である。

しかし、私が読んだ限りでは、『パンセ』にはスピノザに対する記述は見られなかった。スピノザの主著『エチカ』が刊行されたのはスピノザの没後(1677)であるから、1662年に亡くなったパスカルは、その存在を知らなかったのかもしれない。

両者がもし対談していたらどうなっていただろうか。2人ともデカルトの否定派である点では2人は共通しているものの、古典的カトリック絶対主義者のパスカルと汎神論的無神論を唱えたスピノザ…やはり物別れに終わっていたのだろうか。

引用・参考文献
『パンセ(上) (岩波文庫) 』(パスカル (著), 塩川 徹也 (翻訳) 岩波書店 (2015/8/18))
『パンセ(中) (岩波文庫) 』(パスカル (著), 塩川 徹也 (翻訳) 岩波書店 (2015/10/17))
『パンセ(下) (岩波文庫) 』(パスカル (著), 塩川 徹也 (翻訳) 岩波書店 (2016/7/16))