6.渋沢栄一と坂本龍馬
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渋沢は競争戦略についても独自の見解を持っていました。
それは
「良い競争(クリーンな競争)をしなさいよ」
という見解です。
「妨害によって人の利益を奪う競争(悪い競争)」はいけない…というものです。
ところで。
先程、渋沢は
「どんなに小規模な事業でも、自分の利益が少なくても、国家に必要な事業を合理的に(=悪い競争はだめだよ)経営するなら、常に楽しんで仕事ができる」
というようなことを再三述べていると申し上げました。
これって…
亀山社中や海援隊を設立した坂本龍馬の発想・行動とよく似ていますよね。
竜馬達の商いの目的は、あくまでも私利私欲ではなく、日本のため…明日の日本のための活動であったわけです。
深谷出身の渋沢と土佐藩の郷士だった龍馬。
実は共通点が多いのです。
① 生い立ち
渋沢は深谷の豪農出身、坂本はその本家が土佐の豪商でした。両者とも、経済的には恵まれて育ちました。
② 剣術
ふたりとも剣術は北辰一刀流…江戸の千葉道場で学んでいます。もちろん、龍馬のほうが有名ですが、彼の師匠は千葉周作ではなく千葉定吉(周作の弟)ですから、全く同じ道場ではないのですが、同門であったことは間違いありません。
③ 志士経験
両者とも一時的に尊皇攘夷の志士として活動しており、そして、ある時点を境にぷっつりと志士を「卒業」し、180度違う方向の生き方を選んでいます。
④ 幕臣経験
渋沢は一橋家に召し抱えられ、正式な幕臣となっています。龍馬自信は正式な幕臣ではありませんが、幕臣である勝海舟に弟子入りし、幕府の海軍操練所の幹部として働いていた時期があります。
志士・幕臣という立場の違う両方の経験を持っていることが、二人の視野を広げ、「日本全体」「世界の中の日本」を前提とした生き方をする土壌になったのではないでしょうか。
⑤ 藩士としての精神が希薄
江戸時代、武士は「藩」にしばられていました。日本全体ではなく「わが藩」がどうなるか…ばかりを考えていました。たとえば、西郷にとっては薩摩が第一でしたし、高杉にとっては何をおいても長州第一だったわけです。
しかし、渋沢は農民出身でしたから、「藩」という尺度を持ち合わせていなかった。そういう人間が幕臣となり(これまた生まれながらの幕臣ではないわけですが)、海外渡航すれば、否が応でも「日本全体」「世界の中の日本」という尺度出物を考えることが出来るようになるに違いありません。
一方の龍馬。確かに土佐藩士ではありましたが、上士ではなく、下士。虐げられていた身分です。加えて、坂本家の本質は商人。何度も脱藩していることからもわかるとおり、彼には「藩」という枠組みはほとんど作用していません。本質的に「藩士」ではなかったのです。
この点も、二人は実質的に似ています。
志士経験・幕臣経験はありながら、藩士という枠組みにはとらわれなかった点は、特筆すべき共通点だと思います。
⑥ 岩崎弥太郎は共通の友達
この時代、Facebookがあれば、龍馬と渋沢はお互いに「共通の友達」に岩崎弥太郎がいたことを認めあったはずです。
龍馬と弥太郎は土佐の同郷同士、渋沢と弥太郎は明治期の資本家同士というつながりです。
年齢的には、龍馬が最年長、弥太郎が1つ年下、渋沢がさらに4つ下でした。まあ、ほぼ、同世代。
龍馬と渋沢に直接のやりとりがあったかどうかわかりませんが、もし、二人がであっていたなら、北辰一刀流の話でも、弥太郎の話でも、盛り上がったことはこれまた想像に難くありません。
⑦経済活動
龍馬は亀山社中という実質的に日本で最初の株式会社を興し、渋沢は日本資本主義の父といわれるまでになった。
両者とも、資本主義のメリットをいち早く見抜き、それを大再現に活かす生き方を選んでいます。
しかし、私利私欲ではなく、国家のための事業であり、渋沢流「趣味」の領域での活動だったわけです。
このように、渋沢と龍馬には非常に共通点が多いのです。
昨日の懇親会の中で、メンバーのお一人から「龍馬の理想を最も多く実現したのは渋沢だよ」と教えていただきましたが、私もそのとおりだと思います。