昨日の雑談会(サロン)にお越しいただいた皆さん、本当にありがとうございました。

昼夜、同一テーマ「メディア・リテラシーとは何か?」で開催したのですが、議論…ではなく、雑談(笑)の内容は、全然違ったものになりました。
これまた雑談のおもしろいところで、毎回が「万華鏡」のようです。

メディア・リテラシーは、古くて新しいテーマ。
日本では、これに対する教育がこれまでほとんど行われて来なかったようですね。

欧米(特にイギリスや北欧かな)では、子供の頃から「メディアを選ぶ」「メディアを疑う」という「眼」を持つことの重要性をしっかりと叩き込まれるようですね。
だから、常に、デフォルトでは疑ってかかる、積極的懐疑行動を取るわけですね。

逆に、日本では、新聞やテレビで報道されている事実を鵜呑みにする文化が定着している… 頭ではわかっているんですよね、「新聞も嘘を書く」「テレビも間違った報道をする」…
でも、それが体でわかっていない… それゆえ、デフォルトでは鵜呑みにしてしまうわけです。

何かあったときだけ疑問に思う… 消極的懐疑行動なわけですよね。
放送法に縛られていて公平性を義務付けられているテレビと、思想的な偏りが認められている新聞の違いも、「言われてみればそうだよな」という程度の認識の人が多いのも日本の特徴ですよね。

メディア・リテラシーについていえば、結局、自分ひとりが修行して、修練して、自己レベルを高めても、結局のところ、限界がある気がしました。同じレベルで語れる人間が周りにいないのでは、行き止まってしまいますよね。議論も噛み合わないはずです。

組織として、集団として、社会として、国家として、メディア・リテラシーを高めるしくみづくりが最優先課題だと感じました。
昨日はイギリスのBBCのメディア・リテラシー教育の先進性を伺うに及び、腰が抜けそうになりました(いい意味で)。

一方、我が国でも、参政権年齢の引き下げを受けて、国内の中学校・高等学校でも、メディア・リテラシーについての教育にスポットが当たりつつあります。

東京都の小学校では、上級生向けに「1年生に学校のルールを教える動画」を制作するという授業を展開されています。
シナリオを作り、収録し、編集し、テスト上映し、ダメ出しを喰らい、何度も取り直す…

その過程で、「わかりやすい映像とはどのようなものか」「誤解を受けない映像とはどのようなものか」を学ぶ。更には、「過剰な演出はひんしゅくを買う」「独りよがりの表現は評価されない」「やらせはやっちゃいけない」といったことも学習していくわけです。

結果として、メディアの発信者としての感覚のみならず、受信者としての感覚も研ぎ澄まされていくといいます。
積極的懐疑行動が取れる子供が育つんですね。

こうなると、社会人である私達も「今更ではありますが」、メディア・リテラシーについて、がっつりと語る機会は、もっともっとあっても良い気がしました。

そもそも、メディア論云々以前に、情報の収集や処理の方法について、現代の大人たちは、かなり、いい加減な感じがします。

夜のサロンでお話したのですが、私の担当している管理職研修(さまざまな会社で担当しています)で、事前課題を出すと、ほとんどの方が、Googleで検索、ウィキペディアの内容を貼り付けてきて、読みもせずに、プリントアウトしてお持ちになる…

「では、調べてきた内容について相互に情報交換のグループ・ディスカッションをしてみましょう」

と申し上げると、青ざめて、

「え? プリントあうとしてきただけなんだけどな。説明しないといけないの??」

と愚痴を言われる方で溢れかえる…

このシーン。実は、日本全国いたるところで私は眼にし、がっかりする瞬間です。

ICTのリテラシーだの、メディア・リテラシーだのという以前の問題ですよね。
インターネットの情報であれ、特定のマスメディアの情報であれ、使う人間の意識の問題は、まだまだ発展途上のようです。

また、語りましょう。