コンサルティングの際、あるいは講演や研修で、マーケティングをとりあげると、さまざまな質問をいただく。
その中でも、
「標的市場をなぜ設定しなければならないか?」
という問いは、もっとも頻繁に受ける質問のひとつである。
「マーケティングの教科書には必要と書いてある。しかし、理由がわからない」
というものである。
経営教育総研のビジネス・スクールの受講生の皆さん、あるいは、TBC受験研究会中小企業診断士講座の受講生の皆さんは、これに対し、適切な答えを示せるだろうか。
この質問の真意は、そもそも市場は広めに設定したほうが実際の顧客は増えるはずであり、最初から標的市場を狭めて設定する意味はないのではないかという仮説に基づくものである。
この仮説。
一見もっともらしく感じるが、多くの場合、やはり間違っている。
では、この仮説をいかにして崩せば、質問者は納得してくださるだろうか。
標的市場(target market)と実市場(real market)には乖離がある。売り手(企業)が、標的市場を狭めに設定すると、この乖離は大きくなり、実市場はぐっと広くなる。これをターゲット・マーケティングのブラックホール効果(BHE;black hole effect)という。
標的市場がしっかりと設定されれば、市場に大きな重力場が生まれる。
CG(コンピュータ・グラフィック)などで、空間のゆがみを平面上に表すために、トランポリンの上に標的市場の周辺の顧客も、当該製品の重力場に引かれて、その製品を購入してしまう。
不等号で表せば 標的市場<実市場
集合の記号で表せば 標的市場⊂実市場
ということになる。
企業が標的市場を設定する最大の理由は、このブラックホール効果にある。
事例を示そう。
ある企業が、
「20代半ばの女性のお肌を維持し続けることができる化粧水」
を開発したとしよう。
そして、
「20代半ばの女性のためだけの化粧水です!」
という点をことさら強調したキャンペーンを展開したとしよう。
この場合、標的顧客は
「20代半ばの女性」
と限定されているが、果たして実市場も
「20代半ばの女性」
のみに限定されるだろうか。
実際にはそうはならない。
このキャンペーンがうまくいけば、ブラックホール効果が生じ、
「20代の女性全体(あるいはもっと広い範囲の女性)」
が購入する。
「(ハタチだけど)少し早めだけど使ってみたい」
「(29歳なので)少し遅いかもしれないけど試してみたい」
という消費者は確実に存在する。
「20代半ば」
とだけ限定されると、あえて使ってみたいという心理が働くものである。
(もっとも、実際の化粧品のマーケティングの場合、「年齢限定」はいささか冒険である。特に中高年の女性を標的市場とする場合、明確な年齢の限定を避ける商品も多い。「その年齢であることをあまり意識したくない」という顧客心理を考慮したものである。)
アメリカでもっとも売れているタバコはマルボロであるという。
マルボロのターゲットはカウボーイである。
しかし、実際にマルボロを吸っているのはカウボーイだけではない。
カウボーイにあこがれるさまざまなアメリカ人がマルボロを選ぶのである。
コトラーは、マルボロは巨大なブラックホールを形成している好例である。
標的市場であるカウボーイよりもはるかに大勢のカウボーイ以外のアメリカ人がマルボロのファン、すなわち実際の市場となっているからである。
日本の野球用具メーカーは、メジャーリーガーであるイチローや松井の名前を冠したモデルを発売する。
本来は、彼らメジャーリーガーのために開発したモデルなのだろうが、この派生モデルを開発し、市販すると、野球ファンは飛びつく。
価格が他のグラブやバットの倍の値段でも使ってみたいと感じる。
ここにも、ブラックホール効果が生じている。
ペプシの標的市場はティーンエイジャーである。
しかし、実市場にはあらゆる人が含まれている。
「永遠の十代でありたい」
という人は、いくつになってもペプシを愛飲するのである。
標的市場を狭めに設定しているにもかかわらず、実市場は巨大なものになっている。
これもまたブラックホール効果によるものだ。
私はビジネス・スクールの講師を職業としている。
かりに20人のクラスの担任となった場合、同じ化粧品業界出身の1人の受講生に対し、
「あなたのために、専用のレジュメを作ってきた。実務できっと役に立つから使ってみてください」
といって
「化粧品マーケティングの極意」
というレジュメを手渡したらどうなるであろうか。
おそらく、1週間もしないうちに、業界の異なるクラスメート全員がそのレジュメのコピーを手にしているはずである。
「竹永さん、○○さんのためにどんなレジュメ作ってきたのだろう。私も見たい。知りたい」
と思うのが人情である。ここでもまたブラックホール効果が生じている。
このように、
「こんなに市場を狭めてしまったらビジネスにならないのではないか」
と思うくらいに標的市場を設定すればするほど、それに反して実市場は大きくなる。
標的市場を明確に設定すれば、多くの場合、企業はターゲット・マーケティングのブラックホール効果が実感することができる。
逆に標的市場を設定しない場合、すなわち、
「すべての方のための」
というマーケティングの場合には、ブラックホールが形成されず、重力場も発生しない。
したがって、顧客は重力場に引き寄せられることはなく、結果として実市場はきわめて小さくなる。
コトラーもたびたび引用するラウズとトラウト(この二人は学者ではない。実務家。いわゆるマーケティング戦略家である)は、著書『マーケティング22の法則』の中で、IBMの変貌を例に取りながら、
「IBMという社名は、何を表しているだろうか。かつてそれは「大型コンピュータ」を表していた。今日ではありとあらゆることを表している。ということは、何も表していないということなのだ。」
と述べている。
標的市場の設定は、依然として、マーケティングの大原則である。