BSドラマ『三国志 Three Kingdoms』の中で、蜀漢の丞相諸葛亮(孔明)が、同僚の尚書・李厳と意見対立するくだりがあります。
諸葛亮は、将来のために魏を撃つべきだと主張し、北伐を繰り返します。
一方の李厳は、北伐のために重税や兵役に苦しむ民衆を想い、諸葛亮にはけっして迎合しません。
史実とはいささか違う設定ですが、非常に示唆に富んだ設定です。
二人の大臣の苦悩がよくわかります。お互いに嫌ったり憎んだり恨んだりしているわけではなく、主張が相容れないという設定なのです。

蜀漢の苦悩は、子孫のために今我慢を強いるべきか(孔明の主張)、子孫の幸福よりも現代世代の幸福を重視するか(李厳の主張)…という究極の選択の難しさにありました。

現代の日本あるいは地球も似たような苦悩を抱えています。
膨大な借金を返すために消費税増税すべきだという考え、将来世代のために環境に配慮した限定的な事業活動をすべきだという考え方は、孔明の主張に近いでです。これに対し、いたずらな増税は控え、現代世代の生活を尊重すべきだという考え、はっきりしない環境問題への対処よりも経済の発展を第一義に考えるべきだという考えは、李厳の主張に近いでしょう。

一方が正解、一方が誤答…と結論づけるのが実に難しい問題です。

これは、いわゆる法哲学における基本命題です。

「ここに1個のスイッチがある。このスイッチを押せば、向こう1年間の社会問題はすべて解決する。しかし、1年後には壊滅的な社会問題が発生する。あなたはこのスイッチを押すだろうか、押さないだろうか?

おそらくは「押さない」という方が大半でしょう。

では、次の各々の場合はどうでしょうか。

「ここに1個のスイッチがある。このスイッチを押せば、向こう10年間の社会問題はすべて解決する。しかし、10年後には壊滅的な社会問題が発生する。あなたはこのスイッチを押すだろうか、押さないだろうか?

「ここに1個のスイッチがある。このスイッチを押せば、向こう100年間の社会問題はすべて解決する。しかし、100年後には壊滅的な社会問題が発生する。あなたはこのスイッチを押すだろうか、押さないだろうか?

「ここに1個のスイッチがある。このスイッチを押せば、向こう1,000年間の社会問題はすべて解決する。しかし、1,000年後には壊滅的な社会問題が発生する。あなたはこのスイッチを押すだろうか、押さないだろうか?

いかがでしょうか??
時間の尺度が長くなるに連れて、判断は難しくなり、意見も別れるのではないでしょうか。

たとえば、産業革命時の社会や国家の判断は、100年後、1,000年後に不幸が訪れる可能性はあっても、押しちゃったと見ることができます。
ようやく、我々は過去におけるその意思決定に後悔し始めた時期に差し掛かっているのでしょうね。

温暖化問題、消費税問題、原発問題も、本質的には同じですよね。一時的な幸福の後の不可避的な不幸を認めるか、認めないか…という判断の問題なのです。

「ものいわぬ子孫との共存」がなぜ難しいのかというと、結果が出た頃には、先祖たちはすでに墓の中。誰も責任をとる者は残っていないからです。原告と被告が法廷で顔を合わせることはけっしてないからです。

私は孔明的な物の見方だけを支持し、李厳のような物の見方を否定しているわけではありません。
ただ、物言わぬ子孫がこの法廷にいたら、何を主張し、何を要求するのか、客観的にシミュレーションするような議論が必要だと思います。
これは、一種の

「思考実験」

です。 理論物理学者が好きな議論の方法です。

以前にビジネス雑談サロンにおいて、ひょんなことから「法教育の必要性」について議論したことがあったのですが、今度は「法哲学教育の必要性」についても論じてみたいものです。
市民も事業家も政治家も、一連の社会問題を題材とし、法哲学の側面から議論し、客観的な思考実験に徹するとすれば、どのような結論を出すのでしょうか。

一滴の酒がなくとも、一晩うあ二晩は軽く語れることでしょう。