追悼式典が始まりました。
大震災から丸一年。
本当にいろいろなことがあった1年間でした。
生や死についてここまで真剣に考えた年はありませんでした。
改めて被災されたすべての皆様にお悔やみとお見舞いを申し上げます。
本当にたいへんな1年間だったと思います。
震災当日。
私は三重県は四日市、湯の山温泉におりました。
遊びに行っていたわけではありません。
ある企業の部長研修を担当し、一橋大学作成のケーススタディを題材に、DREAを用いて経営戦略論についてしゃべっている真っ最中でした。
午後2時46分頃。
ゆっくりと体が揺れ始めました。四日市でも震度3でした。
今までに体験したことのない妙にゆっくりとした周波数の低い揺れ方でした。
揺れではなく、これは目眩だと思った私は
「済みません。ちょっと目眩してしまいました。しばしご容赦」
と告げました。すると、聞き手の皆さんがてを横に降って
「竹永先生、目眩じゃないよ。地震ですよ」
とジェスチャーしてくれました。
そこでちょっと休憩。談笑したのを覚えています。
まさか東日本でとんでもない大地震になっているとは露知らず…
「では、研修、再開しますね」
そのまま研修はすぐにリスタートしました。
異変に気づいたのは次の休み時間。
携帯電話のワンセグでニュースを見た方からの一言でした。
「先生、どうも、地震、大きかったらしいですよ」
「そうなんですか、たいへんですねえ」
「いやいや、それが、半端じゃないらしい。しかも、東京も震度6とかからしいですよ」
「え? そうなんですか…」
担当の人事部長様と相談の上、研修は一旦中止。
「全員、ロビーのテレビの前の集合。ちょっと状況確認しましょう」
おそらく震災から約1時間後のことです。
テレビをつけると、東京の映像が入って来ました。
地震、火災、ビルの壁が剥がれ落ちる映像…
「これは大事だ」
「神戸の時よりもはるかに広域での大災害だ」
青くなりました。
慌てて会社に電話をかけても全く通じず。
自宅や家族の携帯も通じない…
そのうち、ニュースの映像が切り替わり、
「宮古で津波が発生しています」
「大津波です」
というアナウンサーの声が聞こえてきました。
「大津波警報です」
「3階よりも高いところに避難してください」
御存知の通り、今回の津波は場所によっては高さが30メートル以上にも達していたといいます。3階では本当は全然避難にはならなかったのです。もちろん、それがわかったのは後日のこと。アナウンサーの声も普段とは違い、顔もこわばっています。
「尋常な災害ではない」
ようやく事態の全貌がわかってきました。
後からわかったことですが、長時間の停電に苛まれた被災地に比べて、直接被災しなかった地域の人間のほうが事態の全貌を把握するのは簡単でした。
それでも、個別の情報は入手ができません。
「電話がつながらない。つながるはずがない」
1時間近く呆然とカメラの前で映像を見ながら、私も人事部長さんも受講者の皆さんもとにかく電話で情報を集めようとしますが、何せ電話もメールもつながりません。
その後も、先方本社からの研修停止の指示がないため、続行せざるをえません。
「東京のことが心配ですので帰らせていただきます」
というわけには参りません。
そもそも、東京に向かう交通手段などないのです。
結局、夜8:00過ぎまで、ほとんどの受講者が携帯電話をかけ続ける異常事態の中、私の講義は続いたのです。
私自身、会社や従業員、家族や親類の安否が気になりましたが、連絡もできませんし、東海道新幹線も東名高速も動かないのでは、何もできません。
私自身、こんなにも精彩を欠く講義は珍しいと思うのですが、とにかく講義を続けて欲しいという先方の要請に従い、研修を続行しました。
誰も私の話した内容など覚えていないでしょうし、私自身、何をどう話したのかもよく覚えていません。
夜8:00頃。
ようやく、先方本社取締役から、研修中止命令がありました(おそらく、先方本社も相当混乱されていたのだと思います。管理職研修を行なっていた事自体後から把握されたのかもしれません)。
受講者の皆さんはほぼ全員山を降り、その後の対応に当たることになりました。
私と人事担当部長(それに、あともう一人の方)だけは、研修所に残り、とにかく、情報収集。
他にやることがないのです。どうにもなりません。
しかし、依然として電話はつながらず。メールもダメ…
深夜になってから、会社とようやく連絡がとれました。家族全員と連絡がつながったのは翌日の昼過ぎになってからでした。
とにかく、他に泊まるところもなく(津・名古屋のホテルはすでにどこも満員でした。東京に戻れなくなったビジネスマンその他でごったがえしだったのでしょうね)、人事部長さんのご好意に甘え、研修所に泊めて頂きました。
新幹線は翌日には再開していましたが、とにかく、名古屋駅はとんでもないくらい乗客でごったがえし。
やっとのことで列車に乗り、東京駅までは戻って来ました(そのあと、浦和まで帰るのに倍位の時間がかかりましたが…)。
私の場合、東京に住んでいながら、揺れを体験していません(極僅かな揺れを感じただけでした)。
この日から、まるで悪夢のようなニュースと情報と映像の中で、本当に心が折れそうになりました。
揺れを感じておらず、津波の被害にも直接遭遇しておらず、原発からも200キロ離れているところに住んでいるにも拘わらず、これだけ精神的に滅入るのですから、実際にたいへんな体験をされた皆様の気持ちを考えると、言葉につまります。
5月になって、Facebookをスタート。
そこで多くの方と知り合い、知恵と勇気をいただきました。
震災は終わったわけではなく、復興への道はまだ始まったばかりです。
そのことを今日もう一度再認識し、明日からも
「自分のできること」
「自分のなすべきこと」
「自分がしなければならないこと」
を見極め、全力で臨みたいと思います。
一日も早い日本の復興を、心より願います。