震災から6年。忘れてはいけないと思いつつ、徐々に記憶が風化していく自分を戒めつつ、いろいろなニュースを見ています。
原発事故の後遺症。
本当に痛ましいです(後遺症の形態も多様化しています)。
いやがおうにも再確認させられるのは、
「人というのは、”短期的には性善説”が通用するが、”長期的には性悪説”を適用すべきだ」
ということ。
原発のみならず、増税も地球温暖化問題も、みな根っこは同じではないかと思います。
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明日、みんなが困ることに対しては…「とにもかくにも絶対反対」と考える。
30年後、子どもの世代が困ることことに対しては…「まあ反対かな」と考える。でも、本音をいえば、自分たちの世代の利権はちゃんと確保してほしい。
100年後、ひ孫の世代が困ることことに対しては…「そんなに気にしなくていいのではないかな」と考える。その世代の人間が考えるべきことだろうと責任を転化する。
10,000年後、遠い未来の子孫が困ることことに対しては…「さすがにどうでもいいだろう」と開き直る。「そこまであーた、責任はもてませんよ」と、答える。
100,000年後、超遠い未来の子孫が困ることことに対しては…「考えたこともございません」と驚いてみせる。「どうでもええんじゃないの?」と付け加える。
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法哲学の基本的な例題に、
「ここにスイッチがある。あなたがこのスイッチを押せば、明日、世界中の人は幸福になれる。しかし、その反動で、30年後には、間違いなく、世界中の人は不幸のどん底に突き落とされるようなカタストロフィーが訪れる。あなたはこのスイッチを押すか?」
とかいうのがあったと思います。
これを思い出してしまうわけです。
”短期的には性善説” ”長期的には性悪説” という傾向。
人類種種全体としての本能のようなものなのでしょうね(「集合知」ならぬ、「集合能」)。
将来のことは割り引いて考えるというのは、一定の合理性がありますし。
本能なら治らないのかもしれませんが、それでも、ちょっと悔しい気もします。
できることなら、もう少しだけ、遠い未来の子孫たちとの「超・世代間コミュニケーション」を考える努力をしたいものです。
追記
超重力化で任務を遂行し、相対性理論に基づき、12,000年後の遠い未来に地球に帰還する主人公たちを、その時代の人たちが「オカエリナサイ(「イ」は鏡文字)」と迎えてくれる庵野映画をありましたね。
あの「超・世代間コミュニケーション」にはウルッと来ちゃいます。