1. カフェにMacBookを開くという行為
カフェでMacBookを開いて仕事をしている人を見かける場面は多い。都市部のおしゃれなカフェでは、今もその光景が当たり前のように広がっている。Windowsのノートパソコンでもまったく同じ作業はできる。資料を作る、メールを打つ、ウェブ会議に参加する。機能としての違いは、ほとんど存在しない。
それでもそういった人々はMacBookを選ぶ。あえて選ぶ。その背景にあるのは何か。答えは単純である。便益ではない。意味である。もっと言えば、「その人にとっての尊厳」に触れるからこそ、MacBookは選ばれるのである。
2. カントは言った「価格と尊厳」
この構造を最も端的に説明したのが、カントである。彼は『実践理性批判』の中で、世界に存在する価値を二つに分けた。一つは価格(Preis)であり、もう一つは尊厳(Würde)である。
価格とは、他のものと交換可能な価値である。100円の鉛筆と100円の消しゴムは、理屈の上では交換が成立する。
しかし尊厳とは、いかなるものとも交換できない絶対的な価値である。人間の人格そのものに宿るものであり、他に代えがたい存在である。
この区別をマーケティングに持ち込むと、企業の提供する価値は二層に分解できる。便益は価格であり、意味は尊厳である。機能や効率は価格の世界に属するが、「これでなければならない理由」は尊厳の世界に属する。人はその二層構造を無意識に感じ取り、商品やブランドを選択しているのである。
3. マーケティングにおける「便益」と「意味」の戦い
現代マーケティングは、まさにこの二層のせめぎあいである。
便益マーケティングは、早い・安い・便利・高性能といった競争の領域である。そこでは価格競争が発生し、差別化は困難になる。
かたや意味マーケティングは、その商品やブランドが持つ「物語」「世界観」「自分らしさ」によって選ばれる領域である。
Appleはその典型である。製品スペックでは互換性のあるWindows機が多数存在するにもかかわらず、人々がMacBookをカフェで開きたくなる理由は、スペックの差ではない。「Macを使っている自分」という存在の肯定であり、それは自己表現であり、尊厳の発露である。
Patagoniaや無印良品、あるいはStarbucksですら同じ構造が働いている。人はモノを買っているのではない。自分がどうありたいかを買っているのである。
4. 著作権にまでつながるカント的構造
実は、この「便益と意味」「価格と尊厳」の構造は、法律の世界にも色濃く存在する。たとえば著作権法である。
著作権は、大きく二つに分かれる。一つは著作財産権であり、これは譲渡可能である。いわば価格の領域に属する。もう一つは著作人格権であり、これは譲渡不可能である。作者の人格と不可分であり、尊厳の領域に属する。これが、カント的な発想を現代法制に持ち込んだ典型例である。
いくら著作物が売られようと、その作者の名誉や意図は守られるべきである。
この思想は、そのまま現代のブランド論にも適用できる。ブランドとは「機能」だけではない。「人格」であり「物語」であり「尊厳」である。著作権法が守るものと、ブランドが顧客に訴えかけるものは、同じ地平に立っている。
5. モノが売れない時代の「意味」の設計
モノが売れないと言われる時代である。しかし実際には、モノそのものではなく「意味」を設計できる企業は、強烈に選ばれ続けている。便益だけでは人は動かない。尊厳に触れるからこそ、人はそのブランドを選び、その商品を愛するのである。
カフェでMacBookを開く人々が何を買っているのか。それはスペックでも、OSでも、アルミ削り出しの筐体でもない。
「その自分でありたい」という、交換不可能な物語なのである。