日本の企業文化において、古くから「黒字の一部を社会に還元する」姿勢は美徳とされてきた。経団連が1989年に設立した「1%クラブ」はその象徴的な取り組みであり、企業が利益の1%を文化・教育・福祉などに寄付することを推奨するものである。

この姿勢を完全に否定することはできない。高度経済成長の時代にあって、CSR(企業の社会的責任)を制度化するための一歩として一定の意義はあった。だが、この「黒字時限定」の前提には、ある根本的な違和感が付きまとう。

赤字の年には活動を縮小する、あるいは止めてしまう企業が少なくないこと。「業績がよくないので、社会貢献は控えます」と言われれば、それは合理的な判断に思えるかもしれない。しかし、そこに宿るのは、「善は余剰の配分である」という思想ではないだろうか。

カント倫理に照らせば──仮言命法 vs 定言命法

この問題を倫理学の文脈で考えると、カントの『道徳形而上学の基礎づけ』が思い起こされる。カントは道徳的な行為とは、「それが正しいから行う」ものでなければならず、「何かを得たいから行う」行為は道徳ではないと断言する。

彼が批判するのは「仮言命法」…すなわち「○○ならば〜すべき」という条件付きの命令である。「儲かったら寄付する」「余裕があれば支援する」といった格率(行為の原理)は、状況によって変動するものであり、万人に共通して普遍化できる原理にはならない。

これに対して、カントが唱える「定言命法」は無条件の命令である。「人間を決して手段としてのみ扱わず、常に目的として扱え」という道徳律は、経済的損得を超えて成立しなければならない。「赤字でも社会に貢献する企業」は、この定言命法に近い姿勢を実行していることになる。

パーパス経営とは「企業の定言命法」である

近年注目されている「パーパス経営」もまた、この倫理的構造と響き合っている。「われわれはなぜ存在するのか」「この企業は社会にとって何の意味があるのか」という問いを起点に、事業活動のすべてを再設計しようというのがパーパス経営の本質である。

それは、単なるビジョンやスローガンではない。利益を得てから一部を還元するのではなく、企業の存在そのものが社会貢献であるという理念である。欧米の先進企業は、赤字でも人権保護や環境投資をやめない。戦争や災害時にも支援を続ける。そこには「条件付きの善」ではなく、「無条件の責任」が通奏低音のように流れている。

善の「無条件性」が倫理を支える

善とは条件がつかないときにこそ、その本性を現す。褒められなくても、儲からなくても、誰かに評価されなくても、なおそれを行う意思があるとき、その行為は倫理的な重みを持つ。

これは個人の話ではなく、企業にもそのまま当てはまる。赤字の時にこそ貫かれる理念こそが、企業の「人格」であり、そこにこそ社会は信頼を寄せる。

「黒字の1%を分け与える」のではなく、「たとえ赤字でも、企業の存在意義として果たすべき役割がある」という考え方…それは決して理想主義でも、博愛主義でもない。倫理の形式構造に根ざした、実践理性としての経営判断なのである。