カントを読もうと思ったきっかけは、数年前にショーペンハウアーの著書・関連書籍を乱読していたことである。彼が自身の哲学をプラトンとカントという二つの柱の上に築いたと語っていたことが、昨年プラトンを読む動機となった。そして今年は、もう一方の柱であるカントに挑むべきではないかと考えるに至った。
とはいえ、いきなり『純粋理性批判』をはじめとする三批判書に向かうのは、やや勇気が要る。まずは全体像と構造に触れることが必要だと考え、岩波ジュニア新書の御子柴善之『自分で考える勇気』を最初に選んだ。この一冊は、いわゆる入門書の域を超え、カント哲学の枠組みを丁寧に整理しながら、読者を深い思索へと導いてくれる誠実な構成が印象的であった。
その中で紹介されていたのが、石川文康『カント入門』(ちくま新書)である。こちらはより高度な議論を含むものの、前著で得た基礎理解が足場となり、なんとか読み進めることができた。いくつかのセッションを通じて向き合ううちに、カントの思考の構造が、少しずつ立体的に立ち上がってくる感覚があった。
後半は難解であったが、印象に残るテーマも多い。とりわけ心に残ったのは、「良心とは内なる法廷である」という構造的な理解である。良心とは単なる感情的な呵責ではなく、自らを訴え、弁護し、裁くという構造が理性的に内在していること――その描き方には、倫理・法・心理の構造的共通性を垣間見るような驚きがあった。判決が「後悔」として下されるという点にも、静かな納得があった。
また、「目覚めとは思考法の転回である」という一節も印象深い。目に映る事象ではなく、それらをどう捉えるか。カントの言う「コペルニクス的転回」とは、まさに“見方そのもの”を問い直す転回であり、自分の頭で考えるとは、「何を」以上に「どのように」考えるかという問いに立ち返る営みなのかもしれない。
中小企業診断士として、あるいは経営コンサルタントとしての視点から見ても、多くの示唆を得た。とりわけ、マネジメントやリーダーシップにおける「行動の根拠を自らの理性に求める」姿勢は、カントの実践理性論と相通じるものがあるように思われた。行動科学やアドラー心理学との対比、さらにはショーペンハウアーとの共通点を探る過程もまた刺激的であり、人間の内面と行動原理をめぐる議論には、やはり哲学の核心があると感じた。
あえて課題を挙げるなら、プラトンとの比較はほとんどできなかったことである。イデア論とカントの「物自体」には何らかの通底があるようにも思われたが、それを明確に体系化するまでには至らなかった。この点は、今後の継続的な探究課題として残したい。
本書を読み終えた今、カント哲学の全体像が見えたとは到底言えない。しかし、思考の足元が少し変わったことだけは確かである。その変化こそが、カントの言う「啓蒙」の初期徴候なのかもしれない。そう静かに受けとめている。
さて、次は何を読もうか。目下、思案中である。