「褒めて育てる」「承認が人を動かす」

この考え方は、教育やマネジメントの現場で定着しているように見える。だが、相手を「褒める」という行為には、上下関係が前提となっているのではないか。それは本当に、相手を尊重していると言えるだろうか。

カントとアドラーの共通点

イマヌエル・カントは、「人間を決して手段としてではなく、常に目的として扱え」と述べた。アルフレッド・アドラーは、褒めることや叱ることを避け、感謝と対等な関係に重きを置いた。領域は異なるが、二人に共通するのは、「他者を操作してはならない」という立場である。

感謝は、相手の存在そのものに対して向けられる。行為の評価ではなく、意志や努力そのものへの敬意がある。相手がどう役に立ったかではなく、「そこにいてくれたこと」への認識に近い。それは、操作ではなく共感であり、支配ではなく信頼の態度といえる。

 仮言命法の限界と定言命法の強さ

「褒められたいから努力する」

これは仮言命法の典型である。何かの目的のために行動するかぎり、その目的が変われば動機も変わる。その構造では、人もまた目的のための手段になってしまう恐れがある。それが、カントが仮言命法を道徳法則と認めなかった理由の一つである。

「それが正しいから行う」

このように、条件を伴わない命令が定言命法である。カントは、この形式だけが普遍性を持ち、道徳法則たりうると考えた。他人の評価があるかどうかにかかわらず、自分の内なる法に従う。これが、カントのいう「善意思」の基本である。

形式的であることは、時に冷たく見えるかもしれない。しかし、形式とは、誰にでもあてはまる原則である。例外を設けないということは、誰かだけに厳しくしないということでもある。それは、関係の対等性を守るための骨格といえるのではないだろうか。

アドラーが「褒めるな、感謝せよ」と言った背景にも、同様の構造があるように思われる。

教育とマネジメントへの応用

賞賛は、一時的に人を動かすかもしれない。しかし、賞賛を基準とした行動は不安定であり、期待に応え続けることに疲れることもある。

一方で、感謝は、相手の行動そのものを受け取る姿勢である。その人の存在を承認する態度であり、信頼の前提となる。感謝を伝えることが、長期的な関係を支える軸になりうるのではないだろうか。

カントは、正しいから行うという姿勢を重視した。アドラーは、他者の期待から自由になる勇気を説いた。二人とも、賞賛による操作には距離を置き、感謝という行為に倫理的な意味を見出していた。

人を手段として見るのではなく、目的として関わる。その姿勢が、教育やマネジメントにおいても不可欠なのではないだろうか。