1. 賞賛を求めない善意思

「正しいことをする」。その一言は簡潔で美しく、誰の心にも響く。だが、実際には「評価されるから」「感謝されるから」「得をするから」行動している自分に気づくこともある。そこにふと立ち止まったとき、人は倫理の根本に立ち返る必要があるのではないだろうか。

カントが説いた「善意思(guter Wille)」とは、まさにその立ち止まりの地点に現れる。善意思とは、「義務のために義務を果たそうとする意志」であり、いかなる状況にあっても、それ自体が無条件に善であるとされた。「誉められるから」でも「気持ちがいいから」でもない。「それが正しいからそうする」という意志そのものに価値があるという考え方である。

この考えは、現代のリーダーシップにも通じている。ピーター・ドラッカーは「真摯さ」こそがリーダーにとって最も重要な資質であると語った。彼は、誰も見ていない彫刻の裏側までも丁寧に仕上げるような姿勢こそが信頼を生む、と述べている。

善意思に基づくリーダーは、評価を求めない。他人の視線ではなく、自らの内なる法に従う。そしてこの「評価されなくとも行う」という姿勢が、逆説的に最も深い信頼を呼ぶのではないだろうか。

2. 他人の評価から自由になるということ

カントが「内なる道徳律」に従う意志を強調したのに対し、ショーペンハウアーは「他者にどう見られるか」という欲望そのものを斥けた。彼の倫理観は冷たくすら見える。だが、そこにあるのは「他者のまなざしに振り回されることの空しさ」である。

ショーペンハウアーは、名誉や賞賛、世間体といったものを「最も外的な価値」として位置づけ、それにこだわることが「不幸の源泉」となると説いた。むしろ、自己の内面において静けさと調和を保つこと、すなわち「他人の意見に煩わされないこと」が幸福への鍵であるとした。

これはリーダー論として読んでも興味深い。他人の称賛を得ることが目的になった瞬間、リーダーは組織の倫理軸を見失いがちである。誰にとってのメリットかを明示せず、「称賛される施策」を追い求めてしまう。そこにこそ、現代のマネジメントの危うさがあるのではないか。

3. 「褒めない」アドラー心理学の倫理性

アドラーは教育や育成の現場において、「褒める」ことの危険性を早くから指摘していた。褒めることは一見よいことのように思える。だが、褒めるとは「上からの評価」であり、子どもや部下に「他人の評価に依存する動機づけ」を植えつける危険がある。

アドラーの言葉を借りれば、「褒められるから頑張る子ども」は、褒められないときには行動しなくなる。行動の動機が外部にある限り、その人間は常に不安定であり、真の自立には至らない。

これは善意思の思想と響き合っている。「他人の賞賛を動機にせず、内なる納得のために行動する」という姿勢である。ショーペンハウアーの言う「他者のまなざしからの解放」とも重なるだろう。

「褒めない育成」は、現代のマネジメントでも試みられている。成果だけでなく、その行動の中にある意志を評価する。成果が出なかったとしても、その人が「正しいと思ったことを、ぶれずに実行した」のであれば、それは価値ある行動なのではないか。

4. ぶれないリーダーの倫理的背骨

善意思、他者からの自由、賞賛への依存からの解放。これら三者の思想は、時代を超えて響き合っている。

組織や社会の中でリーダーとして生きるとは、「ぶれずに貫く意志を持ち続けられるかどうか」であり、その意志の根拠が「自分の外側にあるか」「内側にあるか」によって、その人の言動の重みは決定的に変わってくる。

評価されなくとも正しいと思うことを行い、賞賛されなくとも信じる価値を貫く。その姿に人はついていく。真のリーダーシップとは、そうした倫理的な背骨のあり方にあるのではないだろうか。