「売名行為だ」と言われても
震災のたびに現れる善意の人々に対して、なぜか冷笑的な視線が向けられることがある。
東日本大震災の際、芸能界の中でもいち早く支援に入った杉良太郎氏は、「売名行為」との批判を受けたが、それに対してこう返したという。
「もちろん売名だよ。売名に決まってるじゃないか」
そう言ってニコッと笑い、誰に見られなくとも、感謝されなくとも、黙々と炊き出しを続けた。誰も行きたがらなかった南相馬や飯舘村へも物資を運び、現地の人々に寄り添い続けた。
この「ぶれなさ」の源泉はどこにあるのか。
その姿勢には、実はカントの言う「善意思」が、見事に体現されているように思われる。
善意思とは何か─「それが正しいからやる」
善意思(guter Wille)とは、カント倫理学において唯一無条件に善であるとされるものである。
勇気、知恵、誠実といったあらゆる徳が、状況によっては悪にもなり得る中で、善意思だけはそれ自体が善である。では、それはどんな意思か。
カントによれば、善意思とは「義務のために義務を果たそうとする意志」である。
「それが正しいから行う」という意志。感情でも、損得でも、周囲の評価でもなく、ただ内なる道徳律に従う意志。それが善意思である。
「感謝されたいから」でもなく、「自分が気持ちいいから」でもない。むしろ、誰からも理解されず、誤解や非難を浴びても、それでも「そうするべきだ」と思えば、静かに行動する。
その姿勢にこそ、カントは人間の尊厳と自由の核心を見た。
ドラッカーが語る「真摯さ」
同じような倫理観は、現代のマネジメント論にも息づいている。
ピーター・ドラッカーは、『マネジメント』の中で、リーダーに必要な唯一絶対の資質として「真摯さ(Integrity)」を挙げている。彼はこうも言った。
「真摯さとは、誰も見ていない彫刻の裏面までも丁寧に仕上げることだ」
成果や評価では測れない“人のあり方”が、リーダーにとって最も重要なのだと彼は語る。これは、カントの善意思と驚くほど通じる発想である。
「見返りがあるからやる」のではなく、「自分の義務として、やるべきことをやる」。
その一貫性と誠実さこそが、他者の信頼を呼ぶ。
職場のリーダーに欠けているもの
昨今のマネジメント論では、しばしば「成果」「エンゲージメント」「心理的安全性」といった指標ばかりが注目される。もちろん、それらは重要である。しかし、それらを支える根本にあるのは、「この人は信じられる」と思わせる人格的な一貫性ではないか。
信頼は、言葉ではなく「行動が貫かれているか」で測られる。
ぶれずに、損得を越えて、自分の基準で正しいと思うことをやり抜く。
それは、簡単に見えて難しい。人は誰しも“誰かにどう見られているか”を気にしてしまうからである。
だが、善意思に生きる人は、他人の視線よりも、自分の中にある“声なき法”に従う。
それは、静かでありながら、周囲に確かな影響を与える。
善意思はリーダーシップの倫理的基盤である
杉良太郎氏は、「売名だ」と言われても怯まずに行動を続けた。
ドラッカーは、他人の見ていない部分にこそ真価が出ると言った。
カントは、義務のための義務にこそ人間の尊厳があると説いた。
彼らの言動に共通しているのは、外からの評価に左右されず、内なる原則に従って行動するという一点である。
その原則が、「誰もが普遍的に従えるような法であるべき」とカントが言ったように、独善ではなく理性的であること。ここに、善意思が単なる頑固さや自己満足と異なる理由がある。
リーダーシップとは、指導力ではない。マネジメントとは、テクニックではない。人としての一貫性に、周囲が自然に従う構造なのだろう。善意思がリーダーにとって不可欠な理由はそこにある気がする。