大相撲夏場所において、出場する力士それぞれには勝敗が生じる。しかし、夏場所全体に「勝ち負け」という概念は意味を持たない。全体を合計すれば、勝ちと負けはつねに同数であり、勝敗は部分には成立しても、全体には成立しない。

これは、集合の要素や部分集合については語れる性質が、全体集合そのものには適用できないという構造である。

同じことは空間や時間にも言える。地球と太陽の間の距離は測定可能だが、宇宙全体に対して「距離」や「端」といった概念は成り立たない。距離という前提がなければ、「宇宙は有限か無限か」といった問い自体が成立しないのである。

ここで必要なのは、「そもそも、その問い自体は成立しているのか?」という問い返しである。我々が使っている「時間」「空間」「距離」などの概念が、世界の属性ではなく、主観的な見方の枠組みにすぎないとすれば、それを超えて「宇宙全体」や「世界そのもの」を語ろうとする行為そのものが、矛盾を内包していることになる。

このように、問いの前提にさかのぼって「そもそも論」を問う思考の構えを、カントは「超越論的認識論」として展開した。私たちが物事をどう見るか、その“見方”自体を批判することが、哲学のはじまりであると彼は考えたのである。

「そもそも夏場所には勝敗という概念がないのではないか」

「そもそも宇宙が有限か無限かという問いは成り立たないのではないか」

このような構造的に同型の問いは、哲学的には非常に重要である。カント哲学は、世界をどう見るかだけでなく、私たちが問いを立てるその枠組みこそが、最大の思考対象となるべきであることを教えてくれる。