フジテレビ報告書に浮かび上がる「思考停止」
フジテレビの第三者委員会が発表した調査報告書に、「思考停止に陥っていた」という記述があった。事件の本質は、報道機関としての自浄能力の欠如というよりも、組織として思考を停止したことにある…この指摘に強い既視感を覚えた。
思い出されたのは、政治哲学者ハンナ・アーレントの著書『エルサレムのアイヒマン』である。ナチス戦犯アイヒマンは、決して狂信的な殺人者ではなかった。ただの公務員であり、上からの命令に忠実に従い、「私は命令を遂行しただけです」と繰り返す男だった。
アーレントは、その「思考をやめた人間」にこそ、近代における悪の核心を見出した。彼女は、「悪の凡庸さ(banality of evil)」という言葉を残した。
「判断しない判断」が組織全体を覆う
フジテレビの事案もまた、倫理的問題への正面からの対峙を避け、社長・幹部を含めた少数による閉鎖的な意思決定が、長期にわたる番組起用の継続という結果を導いた。問題の本質は、重大な人権侵害の疑いを「社内調整」として処理した組織体制にある。
報告書が明らかにしたのは、命令ではなく“空気”と“慣例”が支配する世界だった。情報は囲い込まれ、議論は封じられ、責任は分散された。経営者も幹部は、誰も「これはおかしい」と声を上げず、むしろ現状を維持することが「安全」で「穏便」であると感じる空気が組織全体を包んでいた。現状維持によって安心を得ようとする集団心理が、結果として「思考しないこと」を正当化していたのだであろう。
これは個人の怠慢ではない。むしろ構造的な判断の放棄、すなわち「組織ぐるみの思考停止」である。
理想を放棄する社会が向かう先
こうした態度は、私たちの身の回りにもある。理想を語ることは「非現実的」と笑われ、現実にうまく適応できる人間こそが評価される。しかし、その「現実」なるものが、倫理や人権や正義を後回しにする構造を内包していたとしたらどうなるだろうか。順応とは、倫理の鈍化でもある。
アーレントが問うたのは、なぜ“普通の人々”が重大な不正に加担するのかという問いである。そこに悪意や狂気が必要とは限らない。ただ、考えないだけでいい。
私はいま、カントの入門書を読んでいる。そこに書かれていたのは、「理想を掲げ続けることを放棄してはならない」という、古風でまっすぐなメッセージだった。理想がない社会に、倫理は存在しないのだろう。
現代の組織が問われているもの
アーレントは、20世紀という惨劇の中で、人間の思考の可能性と限界を見つめ直した。カントは、どれだけ現実が困難でも、理性によって理想を掲げることの意味を信じ続けた。
フジテレビの事案は、報道倫理の問題であると同時に、人がどこまで「考えること」を手放しているかを投影している。フジテレビだけの問題ではないのだろう。