入学時に紙の辞書を強要する学校があるという。もちろん、生徒や保護者が納得していれば、それ自体が問題とは限らない。ただ、「紙の辞書でなければならない」という方針には、現代の教育と情報環境の変化を踏まえた議論が欠けているように思われる。

たしかに、北欧では一部でデジタル教科書から紙へ回帰する動きがある。しかし教育学では、紙とデジタルのいずれが優れているかを単純に論じるのではなく、**「学習目的・年齢・内容との適合性」**で使い分けるべきだとされる。認知心理学の研究でも、紙のほうが深い読みには向く一方、検索性や即時性はデジタルの強みとされる。

辞書に関しても同様である。紙の辞書→電子辞書→スマホアプリ→集合知のウェブ検索→生成AIと、情報ツールは進化してきた。現代の学習者は、知識の「探索」だけでなく「意味づけ」や「応用」まで含めた情報活用能力を求められており、これは情報学でも「リテラシーの多層化」と呼ばれる。

私自身、紙の本からKindleへ移行し、辞書もアプリやAIに置き換わった。紙を使わなくなったことで読書量が減るどころか、むしろ気軽に読むようになった。辞書も、紙よりむしろ頻繁に使うようになったと感じる。

そのような環境のなかで、紙の辞書を一律に強要するのは、「教育」ではなく「慣習の再生産」に近い。例えるなら、黒電話やVHSを若者に使わせるようなものである。もちろん、紙にしかない価値や偶然の出会いがあることは否定しない。だがそれは、「選択肢のひとつ」として伝えるべきであり、「唯一の方法」として義務づけるべきではない。

教育とは、学び手が自らのツールを選び、思考を深める過程を支援することである。ツールや媒体の固定ではなく、「何を学ぶか」「どう学ぶか」を問い続ける姿勢こそ、教育に必要なのではないか。