1. デリダと「わかり合えなさ」
人と人とは、どこまでわかり合えるのか。
誰もが一度は抱くこの問いに、デリダはあえて希望ではなく、構造的なズレを突きつけた。
彼が提示した概念「差延(différance)」とは、言葉の意味は常に「他の言葉との差」として成立し、しかも確定されることなく、時に先送りにされるという理論である。
一見すると抽象的な言語論にすぎない。だが、日々の会話を思い出してほしい。「言ったつもりだった」「そんなつもりじゃなかった」――このようなすれ違いの多くは、言葉が完全に通じ合うという幻想が崩れることで生まれる。
意味はズレ、伝わったと思っても、それは相手にとって別の文脈で解釈される。
差延は常に存在する。それが、人間関係における「わかり合えなさ」の根にあるとするなら、私たちは誰とも完全に通じ合うことができないという前提に立たねばならない。
この前提が個人の孤独を生むだけでなく、集団や社会のレベルにまで拡張されるとどうなるか。そこで見えてくるのが「差延の閾値」である。
2. レヴィナスと「触れ得ぬ他者」
デリダが「ズレ」から出発したとすれば、レヴィナスは「他者は決して把握できない存在である」という倫理から出発する。彼にとって、他者は常に私を超えており、その顔(かたち)は決して概念や知識に還元されてはならない。
この立場はデリダの差延と響き合う。わかり合えなさは、単に情報が足りないから起こるのではない。むしろ、人間同士の関係そのものが「到達不可能性」を前提としているのだ。
レヴィナスは、他者を理解しようとする意志そのものが、暴力になり得ると警告した。
「あなたを理解したい」は、「あなたを私の枠に押し込めたい」と紙一重なのだ。
だからこそ、人間関係には本質的な緊張がある。
「差延」が構造の問題であるならば、「触れ得ぬ他者」は倫理の問題である。両者は、人間が他者と関係を結ぶ際に、常にズレと暴力を孕んでいることを示している。
3. アリストテレスと社会の「適正規模」
この「わかり合えなさ」を個人や二者関係にとどめず、集団や社会の単位にまで引き上げてみよう。ここで古代ギリシャの哲人アリストテレスが登場する。
彼は『政治学』の中で、「ポリス(都市国家)は善く生きるための共同体であり、そのためには大きすぎてはならない」と説いた。人数が増え、規模が大きくなりすぎれば、人々は互いに顔を知らず、理解も信頼も行き届かなくなる。
これは、差延の累積的な拡大を直感的に捉えた考え方だと言える。
わかり合えなさが少数の関係の中であれば、まだ調整が効く。だがそれが数百人、数千人、国家単位となれば、そのズレは制御不能となり、やがては制度や秩序そのものが揺らぎ始める。
アリストテレスの言う「適正規模」は、単なる人口の問題ではない。人が互いに理解し合える、倫理的・政治的な限界点を直感していたのではないか。
4. 政治における「差延の限界」
現代の政治を見れば、この問題はより切実である。巨大政党が一枚岩でなくなるのも、大国が機能不全に陥るのも、単に意見の違いでは片づけられない。
そこには、言葉が伝わらない、立場が交差しない、そもそも共通の前提が崩れている――そんな「差延の極限状態」がある。
政治とは、もともと利害や意見の異なる人々を、なんとか一つの枠組みにまとめる試みである。だが、差延がある限り、その枠組みは常に流動し、崩れる危うさを抱えている。
デリダは、差延の存在を乗り越えることはできないとした。ならば政治は、「わかり合えること」を前提にするのではなく、「わかり合えなさに耐える構え」を基礎に組み直さねばならない。
この構えがない政治は、次第に暴力的な統一を志向し、内在するズレを抑圧する。
その末路は、分裂か、崩壊か、独裁である。
5. 「壊れない関係」の条件とは何か
離婚、絶交、退職――人間関係の断絶は、ある日突然起こるように見えるが、実際には小さなズレが積み重なり、ある閾値を超えた結果として現れるものではないか。
わかり合えなさが差延として常に存在し続けるとすれば、関係が保たれるためには「ある程度のズレを許容できる構造」が必要となる。
これは、国家にも、組織にも、人間関係にも共通する条件である。
「完全にわかり合えるはずだ」という期待を手放し、「ズレを抱えたまま共にある」ことを目指す社会。
そのためには、関係にも、共同体にも、そして政治そのものにも、「差延の閾値」を超えない範囲での適正な距離と規模が必要なのではないか。