「この社会で『異常』とされるものは、いつ、誰が決めたのか?」
この問いに即答できる人は少ないだろう。私たちは日々、ニュースやSNSを通じて、何が「普通」で、何が「おかしい」のかを判断しながら生きている。しかし、その判断は、本当に私たち自身のものなのだろうか?
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、その問題を徹底的に分析した。彼は、監獄の成り立ちを考察しながら、「正常」と「異常」という概念そのものが、社会によって作られたものであり、それが人々の管理手段になっていることを明らかにした。
フーコーの議論は難解に思えるかもしれないが、実は私たちの日常と深く関わっている。本稿では、哲学の専門家でなくとも理解できる形で、フーコーの考えを現代社会に当てはめながら見直してみたい。
「異常」はどのように生まれるのか?
フーコーは『監獄の誕生』において、近代における刑罰の変化を追った。かつての刑罰は、罪を犯した者に直接的な罰を与えるものだった。しかし、19世紀以降、社会は単に「処罰」するのではなく、「矯正」する方向へと進んでいく。監獄は、犯罪者を閉じ込める場所であるだけでなく、彼らを「正常」にするための施設となった。
この「矯正」という考え方は、刑罰の枠を超えて、学校や病院、職場など社会のあらゆる場面に広がった。例えば、学校では「よい生徒」と「問題児」が分類され、問題児は指導の対象となる。精神病院では「健常者」と「異常者」が区別され、治療の名のもとに管理される。このように、社会が「異常」を定義し、それを「正常」に戻すための仕組みを整えてきたのだ。
この視点から考えると、私たちが日々目にする「異常」も、実は社会が作り出したものに過ぎないのかもしれない。
監視社会と「見えない管理」
フーコーは、「パノプティコン(Panopticon)」という概念を用いて、監視が人々の行動をどのように変えるかを説明した。これは、イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムが考案した監獄の設計に由来する。パノプティコンでは、看守が一方的に囚人を監視できるが、囚人は自分が監視されているかどうかわからない。そのため、囚人は自ら規律を守るようになる。
この考え方は、現代の監視社会にも通じる。防犯カメラ、スマートフォンの位置情報、SNSのアルゴリズム——私たちは常に見られている。そして、それに気づかぬうちに、監視されることを前提とした行動をとるようになっている。
たとえば、SNSでは「炎上」するのを恐れて発言を慎重にすることがあるだろう。あるいは、会社での評価を気にして、上司の目を意識した行動をとることもある。これらは、まさにパノプティコンの仕組みが日常に入り込んでいる証拠だ。
「異常」を理由にした排除の危険性
私たちは、異常とされたものをどのように扱っているだろうか?
歴史を振り返ると、「異常」のレッテルを貼られた人々が、社会から排除されてきたことがわかる。かつては、精神疾患を持つ人々が「危険」とみなされ、強制的に隔離された。LGBTQ+の人々は、「異常」として扱われ、矯正治療の対象とされた。女性の社会進出すら、ある時代には「女らしくない」として批判された。
現代でも、同じようなことは続いている。例えば、発達障害を持つ人が、職場で「適応できない」と判断され、排除されるケースがある。あるいは、政治的な意見が「極端すぎる」とみなされ、社会から抑圧されることもある。こうした「異常の排除」は、知らぬ間に進行しているのだ。
フーコーの議論が示すのは、異常とされるものは、本当に異常なのではなく、社会がそう決めただけかもしれないという視点である。
私たちは「異常」とどう向き合うべきか?
では、私たちはこの問題にどう向き合うべきなのか?
フーコーは、単に「監獄は悪い」「監視はやめるべき」といった短絡的な批判をしているわけではない。彼が強調したのは、「権力は見えにくい形で働く」ということに気づくことが重要であるという点だ。
私たちは、ニュースを見て「この人はおかしい」と判断することがある。しかし、それは本当に自分の考えなのか、それとも社会が作り上げた「異常の定義」に無意識のうちに従っているのか、立ち止まって考える必要がある。
例えば、次のような問いを持ってみるのはどうだろうか?
• ある行動を「異常」と判断するとき、その基準はどこから来ているのか?
• 自分が「普通」と思っていることは、本当に普遍的なものなのか?
• 私たちが「普通」であるために、どれほどの管理や規範に従っているのか?
フーコーが遺したのは、社会のルールや価値観がどのように作られ、どのように人々を管理するのかを問い直すための視点だった。そして、その視点は、監獄や法律の問題だけではなく、私たちの生活そのものに関わっている。
異常とされるものを恐れるのではなく、それがなぜ異常とされているのかを考えること。それが、見えざる統治の仕組みに気づく第一歩なのかもしれない。