カントの哲学がすでにあるのに、なぜフッサールの哲学が受け入れられているのか。長年、疑問に思っていた。両者には共通点も多い。ともに「私たちは世界をそのまま認識できるわけではない」と考え、意識の働きによって世界がどのように構成されているかを問う。しかし、決定的な違いがある。それは、「認識の限界を前提にするか」「経験そのものを分析するか」 というアプローチの違いだ。この違いは、リンゴ、VRのリアリティ、痛み、絵画 という具体的な事例で比較すると、より鮮明になる。

リンゴの見え方

カントによれば、私たちが見ているリンゴは「物自体」ではない。私たちの認識の枠組み(時間、空間、因果など)を通して構成された「現象」にすぎない。そのため、「リンゴそのもの(物自体)」がどのようなものであるかを、私たちは知りえない。見えている赤さも、感じる丸みも、すべては意識のフィルターを通した結果であり、本当のリンゴの姿は不明だ。

フッサールは、この「物自体」という考え方を棚上げし、「そもそも私たちはどのようにリンゴを経験しているのか?」に注目した。たとえば、リンゴの赤さは、光の反射を視覚が捉えたものだが、それを「赤い」と認識するのは、過去の経験や文化的背景にも影響される。また、リンゴの重さは触覚を通して得られるが、その重さの感じ方は状況によって異なる。フッサールは、こうした「リンゴをリンゴとして経験する過程」そのものを分析しようとしたのだ。

VRのリアリティ

カントの立場では、VRの世界も現実の世界も、どちらも私たちの認識の枠組みを通して知覚された「現象」にすぎない。つまり、カントの哲学では「VRのリンゴも現実のリンゴも、どちらも主観的な現象であり、その違いを根本的に説明することはできない」。

一方、フッサールは「VRのリアリティがどのように成立するのか?」という点を分析する。たとえば、VRのリンゴがリアルに感じられるのはなぜか? それは、視覚情報の精密さだけでなく、触覚フィードバックや環境音など、複数の感覚が組み合わさることでリアリティが生じるからだ。この「リアリティの条件」を探究するのが、フッサールの現象学である。カントは「VRのリンゴも主観的な現象」として括るが、フッサールは「リアルさとは何か?」を問い、意識の働きを深掘りする。

痛みの理解

医者が患者の痛みを理解できるか? カントなら「痛みは主観的なものなので、他人が完全に共有することはできない」とするだろう。痛みの感覚は個々人の主観の中で生じるものであり、同じ刺激を受けても、人によって痛みの感じ方は異なる。したがって、痛みの本質は他者にとって不可知なものである。

フッサールの立場では、痛みそのものを共有することはできないが、「痛みの経験はどのように伝達され、共有されるのか?」を分析することはできる。たとえば、患者が「ズキズキする」と言ったとき、医者は言葉、表情、身振りなどからその痛みを推測する。つまり、痛みという主観的な体験が、どのように他者へと伝達されるのか、そのプロセスを探求するのがフッサールのアプローチ なのだ。

絵画の美しさ

カントは、美的経験について「美には普遍的な感覚の枠組みがあり、それに基づいて判断する」とする。たとえば、「この絵は美しい」と感じるのは、単なる主観的な好みではなく、人間に共通する普遍的な感受性の枠組みによるものだと考える。

フッサールは、「美しさをどのように経験するのか?」を探求する。たとえば、ある絵画を鑑賞する際、どこに視線を向けるのか? 色彩や構図はどのように意識の中で組み合わさるのか? こうした「美の経験のプロセス」を解明しようとする。カントが「美とは何か?」を哲学的に問うのに対し、フッサールは「美はどのように意識に現れるのか?」を分析するのだ。

カント vs フッサール:受動か能動か

カントの哲学は、「物自体は知りえない」とし、認識の限界を前提に受け入れる。それに対し、フッサールの哲学は、「その限界の中で、経験の意識構造を解明しよう」とし、より能動的に分析を進める。

カントは「世界をどう知るか?」を問うが、フッサールは「私たちは世界をどう経験しているのか?」を問う。カントは「知りえないもの」を前提とするが、フッサールは「経験されるもの」を徹底的に分析する。カントの哲学は認識の枠組みを明らかにすることで「何が可能か?」を示すが、フッサールの哲学は意識の働きを分析することで「どのように経験が成り立つか?」を解明しようとする。

どちらも「リンゴ」を例に語られることが多いが、その焦点はまったく異なる。フッサールの哲学が受け入れられたのは、単なるカントの延長ではなく、より具体的な問題に応用できる思考の道具だったからなのだ。