実存主義文学の東の正横綱がドストエフスキーだとすれば、サルトルの盟友として知られるカミュは西の正横綱ではないだろうか。前者が四大長編を含む多数の小説を残しているのに対し、カミュが著した小説は意外と少ない。我が国で一番有名なのは、最初の小説である『異邦人』だが、コロナ禍の影響で、後期の大作『ペスト』の知名度も一気に上がった(この数ヶ月で、Amazonへのレビューがどんどん増え、中古本の値段も急騰した)。

初めて読んだのは大学生の頃だったが、淡々と事実が書かれた小難しい本…という印象しか残っていない。私の十代・二十代、正確には、阪神大震災が起こった三十代前半までの期間、日本は国を揺るがすレベルでの天災を経験しておらず、私自身、今よりも遥かに、災害に対して鈍感だったのではないかと恥じる。

50代半ばにして、本作を再読し、淡々と事実が語られているな…という感想は変わらなかったが、登場人物に対するなめるような心理描写が延々と続く昨今の小説とは異なる恐怖感を持った。描写がシンプルだからこそ、事実の怖さが引き立つのである。

学生時代、気にもとめなかった描写がある。p.174の「すべての乗客は、できうる限りの範囲で背を向けあって、互いに電線を避けようとしているのである。停留所で、電車が混んできた一団の男女を吐き出すと、彼らは、遠ざかり一人になろうとして大騒ぎのていである。頻繁に、ただ不機嫌だけに原因する喧嘩が起り、この不機嫌は慢性的なものになっていた」という箇所である。本作は、モデルとなるペスト禍があったわけではなく、カミュ自身の完全な創作なのだが(カミュは、メルヴィルの『白鯨』にヒントを得たらしい)、まるで、カミュは、山手線の車内を見てきたのではないか…と思ってしまうほどのリアルな描写である。引用の最後の一文などは、「マスク警察」の予言と見ることもできる。

1.群像劇としての面白さ

本作には、主人公の医師ラウー以外にキーとなる人物が幾人か存在し、群像劇の体をなしている。一人はラウーのパートナーとなる「よそ者」のタルーであるが、彼以外にも、新聞記者のランベールと官吏のグランの存在は印象深い。カミュ自身が、下級官吏(アルバイトに近い公務員)と新聞記者の経験を持っている。彼らは、作者が、異なる視点からペスト禍を描く上で重要な役割を果たしている。最近の小説やドラマでよくある役人とマスコミを悪者に仕立てる…という安っぽい構図を期待して読むといい意味で見事に裏切られる。

官吏グランへの描写を読みながら、思い出したのが、数ヶ月前に読んだ『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく』(ロドリング著 日経BP)である。著者のロドリングは、感染症の専門家であり、本書は、統計に対する正しい接し方を説いた数年前のベストセラーである。本書の中で、感染症が広がる際に最も活躍するのは、医師を含む医療関係者ではなく、仕組みを作る「名もない公務員(いわゆる下級官吏)」たちであることが述べられている。ロドリングは、「感染症対策にヒーローはいない、必要ない」と再三述べているが、この発想は、カミュが『ペスト』で描いている内容(下級官吏による衛生隊の設立と登場人物たちのそれに対する積極的な関与)と実によく似ている。

「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」(p.245)というリウ−の言葉も心に残る。本書は不条理文学でありながらも、厭世的な印象は少なく、「やるべきことはちゃんとやろうじゃないか」という正論も吐かれているところが素晴らしい。「誠実さ」と似た言葉に「真摯さ」があるが、かつて、ドラッカーが、主著『プロフェッショナルの精神』の中で、真摯さをマネジャーにとって唯一の先天的資質として掲げ、その本質を「彫刻を作る際に、飾ったときに見えない部分であっても手を抜かずに掘り上げる資質」であると比喩していたのを思い出した。衛生隊参加者の行動は、まさに「誠実さ」、そして「真摯さ」の具体であろう。

主人公リウーとイエズス会神父のパルヌーとのやりとりもおもしろい。ペストとの戦いで次第に態度を軟化させるパルヌー(p.328にあるように、「あなたがたは」という上から目線的な物言いが、物語後半では「私どもは」という表現に変わった点は象徴的である)だが、それでも、彼は最後の一線である「神を信じる」という行為は捨てることができなかった。神を信じないことを公言する不条理人・リウーとの間には、埋まることのない溝が描かれている。「最も急を要するコトは、彼らをなおしてやることです。僕は自分としてできるだけ彼らを守ってやる、ただそれだけです」(p.186)というパウルーに対するリウーの主張は印象的である。

2.集団的史実としての重み

物語前半、ペストの恐怖がひたひたと人々に忍び寄る。コロナ禍と重複するのは、社会全体の「認めたくない症候群」の存在である。一種の集団浅慮。「そんなはずはない」と個人が思うのは当たり前だが、為政者を含む社会全体が「そんなはずはない」と思ってしまう恐怖である。私自身、豪華客船の中に感染者が出た時期には、楽観視していたし、東日本大震災時に匹敵するレベルの経済的打撃に広がるとは考えてもいなかった。事態を楽観視していた本作の登場人物たちを安易に批判できる立場ではない。

「筆者」(この作品には、作者カミュとは異なる、「筆者」という登場人物がいて、その正体は物語の最終局面で明かされる)の視点で描かれた「もうこのときには個人の運命というものは存在せず、ただペストという集団的な史実と、すべての者がともにしたさまざまな感情があるばかりであった」(p.247)という一文。本稿を書いている時点では、日本はここまでの状況にはなっていない。収束ムードが広がり、人々は元の生活に戻ることを当たり前のように受け入れ始めている。「集団的な史実」となった平成の2大震災とは、この点で、大きく異なるように思えてならない。海外諸国では万単位の方が亡くなっており、コロナは「集団的な史実」として深く刻まれていくだろうが、日本ではそうはならないのではないか。

その根拠は、震災のときにあれほどクローズアップされた原発に対するアレルギーもわずか数年で忘れてしまう楽観的国民性の存在である。弱者に対しては表面的には「絆」「共生」「一つ」などというスローガンは掲げ、支援する姿勢は示すが、その支援者たちは、いざ、自分が「自粛生活」を余儀なくされると、1ヶ月も我慢できないということが露呈した。次の災害で、新たなスローガンが生まれてきたとしても、鼻白んでしまう。第2次世界大戦で嫌というほど生まれた「集団的な史実」が、今や生まれにくい国になってしまったのかもしれない。「絶望になれることは絶望そのものよりもさらに悪いのである」(p.268)という一文、「『自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです』」(p.307)という新聞記者ランベールの言葉は、現代の日本人に対する警鐘としても重みがある。

3.不条理文学ならではの最終局面

自らを鈍感だな…と反省したのは、p.375のタルーの告白の中の一文である「われわれはみんなペストの中にいるのだ、と。そこで僕は心の平和を失ってしまった。僕は現在もまだそれを捜し求めながら、すべての人々を理解しよう、誰に対しても不倶戴天の的にはなるまいと努めているのだ」を読んだ瞬間である。本作においてペストは一種の比喩であり、人類を悩まし続けるあらゆる天災・人災を総括する言葉として用いられていることにようやく気づいたからである。カバー裏の解説にも「過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編」とあるではないか!(笑)

終盤、主人公リウーにとっては、心が張り裂けるような不幸が2つほぼ同時に起こる。ここは、まさに、不条理文学の真骨頂である。物語はこのまま終わるのか…と思ったが、最後の最後で、犯罪者コタールの逮捕シーンが生々しく描かれる。主人公が不幸な死を遂げながらも、家族に悲しまれることもなく終わるカフカの『変身』とは、大きく異なる展開である。不条理ながらも少しだけ光が差し込んでいるのを感じさせる『ペスト』のほうが私の好みである(ドフトエフスキーの『罪と罰』などにも共通するエンディングである)。もっとも、本作では、ペスト菌の恐怖が終わってはいない、彼らは一時の眠りに入ったに過ぎないことが、最後の一段落で語られて終わる。リドリー・スコットの『エイリアン』、庵野秀明の『シン・ゴジラ』と同じようなぞっとするラストシーン。不条理文学もやはり、結末はこうでなくてはいけない。