著者が長年の経験を元に、数年間かけてじっくりと書いた集大成のような一冊。重い内容なのだが、なぜか清々しさを感じた。
患者の生の声に加え、デカルト、パスカル、スピノザ、ゲーテ、ヤスパース、ベルクソン、トマス=マン、オルテガ、ホワイトヘッドらの引用が適切であり、心を打つ。本書を入門書としながら、彼女が引用した哲学者の言葉や著書を読み進めるという形での実存哲学の勉強法もありうると感じた。
年齢を問わず、「生きがい」について本気で考えたくなる一冊である。
(1) 「限界状況」と「対自」が作る生きがいにあふれる人生
「○○ちゃんも私もみんな戦争のために……一生めちゃめちゃに壊されてしまった。けれどこの尊い多くの犠牲者によって平和が築かれて行くのだったら、この上なくうれしくてならないのだけれど」(P.75)
「意味と価値への欲求」の節で紹介されている被爆して顔面裂傷し、左眼失明した女性手記である。こういう境地になるまで、想像を絶するような葛藤があったと思う。自らの不幸にも「意味と価値」を見出そうと苦しんできた彼女の精神をとてつもなく尊く感じる。
神谷は度々、ヤスパースの「限界状況」あるいはその類似概念を引用している(p.96)が、生きがいの発見に限界状況が関与していることは間違いない。平穏無事な人生を送ることができれば、瞬間瞬間は幸せかもしれないが、生きがいを見つけることは難しい。この場合、一生分の生きがいは、瞬間ごとの生きがいの総和よりもなぜか小さくなる…合成の誤謬のような現象が起こるのであろう。平々凡々と「即自」を何万時間生きるのではなく、「限界状況」に身を置き、「対自」を生きることこそが、生きがいにあふれる人生を創出する唯一の方法である。「人間の意識をつくるものは苦悩である」というゲーテの言葉(p.137)は、本書中のさまざまなすばらしい引用の中でも、ひときわ光を放っている。本書中盤のテーマである「変革体験」も、「限界状況」「対自」によって即発されるのではないだろうか。
(2) パスカルの「気晴らし」論との比較
パスカルは『パンセ』において、「気晴らし」は必要悪であり、死への恐怖をオブラートに包んでくれる効果はあるが、問題の先送りにすぎないという逆機能を併せ持つものだと指摘する。神谷の見解は、パスカルのそれとは少し異なるように思える。
本書では、生存目標がなく心臓発作に苦しんでいた患者が、膀胱炎等にかかり、その短期的闘病生活に集中している間は、心臓発作がなくなったという逸話が紹介されている(p.130)。これは、短期的な目標(パンセの「気晴らし」に近い概念だと思う)が、充実感の源泉となっていることの一例である。ただし、次の目標がなくなると、事態は元に戻るか、あるいは更に悪化してしまうおそれもあると、神谷は指摘している。
(3) 「負の使命感」の存在への警鐘
神谷は、本書前半において、「使命感」についてさまざまな角度から考察しており、「使命感のもたらすものは必ずしも人間の社会にとって建設的なものばかりではない」(p.47)と述べ、いわば「負の使命感」の存在に警鐘を鳴らしている。アーレントは、主著『全体主義の起源』において、「悪の凡庸さ」、すなわち、誰もが、負の使命感から、知らず識らずのうちに(つまり、罪悪感にさいなまれることなく)「悪」に手を染めてしまう可能性があると説いているが、これと似た主張である。以前より、私が参加する哲学研究会で幾度か議論になった、「負のコナトゥス(スピノザのいう努力)」は残念ながらやはり存在するのではないかと思う。
(4) ニーチェの思想との対比
キリスト教を「弱者の宗教」と批判したニーチェの思想と、著者・神谷の思想との比較も試みてみた。神谷は「苦しみにも意義を発見したい人を納得されるために、昔からいろいろな意味づけがこころみられてきた」(p.137)と切り出し、宗教その他の「意義だし」を否定してはいない。
一方、「癩は天啓でもあった」(P.223)、「むしろより人生を肯定しうるし、いろいろなことに意欲を持って来たと思っている」(P.238)といった本書に紹介されている様々な患者の考えられないほどの前向きな声を目にすると、ニーチェの言う「永劫回帰」を想起する。患者の中には、膨大な年月の「対自」の結果、「超人」となり、「永劫回帰」思想に近づいている方々がいたのではないだろうか。
過酷な「対自」を生きていない我々「壮健さん」には、絶対にこの気持ちはわからないのかもしれない。「そうはいっても、できることなら、普通の人生を送りたいと願っているのだろう」というのは超人ではない我々側からのものの見方である。
スピノザによれば、「真理は自らが真理自身と虚偽とを区別する指標になる」(『エチカ』第2部定理43)のであり、「超人」となり、「永劫回帰」思想を受け入れた人にしか見えない真理があるのであろう。神谷は、「変革体験」の特徴を4つあげている(p.253)が、その4番目の特徴が、「表現の困難」であるという。やはり、真理は、それを発見した人だけに独占される性質のものなのである。
話をもとに戻すと、神谷はキリスト教を「弱者の宗教」と否定はしておらず、「(人生の)意味付けの道具」として宗教に対し、一定の評価をしている点ではニーチェと異なるが(神谷自身はキリスト教徒である)、ニーチェの説く「超人」や「永劫回帰」に近い感覚を、患者との交流の中で抱くようになったのではないだろうか。
(5) 「決心」の大いなる機能
コンサルタントの端くれとして、印象に残っているフレーズは、パール・バックからの引用「決心をするということは測り知れない安堵を意味します。決心には目標があります」(p.152)という2文である。知的障害を持って生まれていた我が子を呪っていた彼女自身が「絶望から這い出て」きた瞬間を表現した一言。コロナにより、舵取りの方向を見失っている経営者が多い中、「決めることができた」人はやはり強いと思う強いと思う強いと思う。ちなみに、彼女は、後に、自分の娘と同じ境遇の子どもたちの前で講演した瞬間に、さらなる飛躍(「欲求と感情の社会化」)を果たす(P.193)。
(6) 「よろこび」における利他性の再確認
「よろこびというものは、もう一つきわだった特徴は、ウイリアム・ジェイムズも気づいたように、それがふしぎに利他的な気分を生みやすい点である」(p.21)ということを、この数日間、噛みしめることとなった。
私は企業に対するコンサルティングに従事するとともに、さまざまな企業で社員から役員までさまざまな階層・職種の方々に対する研修を担当している。ところが、コロナの影響で、パタリと仕事が無風状態になった。最初のうちは「この1年頑張りすぎてきた。丁度いい充電期間」と自分に言い聞かせてきたが、いざ、教壇やマイクから遠ざかると、なんともいえない寂しさや不安さを感じるようになった。
ようやく、5月の3週目に入って、ZoomやTeamsを使った研修業務が徐々に再開、ほっとするとともに、人前でまた話せるようになったことに対する「よろこび」は想像以上のものがあった。
5月最終週には、リアルな場で話す機会も復活、「ああ、戻ってくることができた」といううれしさが熱くこみ上げてきた。これすべて、私の話を熱心に聞いてくださる受講者の皆様の存在のおかげであり、「利他的な気分」によるものであることは間違いない。ルソーの言葉を借りれば、「生を感じた」(P.23)瞬間である。