2.渋沢の思想の根源
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彼の思想の根本は儒教と武士道。
儒教については、意見が別れたのですが、私は朱子学ではなく陽明学こそが、彼の思想の根本にあると思います。
師匠筋、友人たちも陽明学の関係者が多く、本書の中でも「朱子のようにあたまでっかちになってはならない」と述べています。

朱子学は儒学の一派で、「礼」を重んじ、形式を思んじる学問。幕府公認の学問であり、江戸時代の武士の間では主流になった一派です。ライバルの陽明学者からみれば、「かっこつけの学問」「机上の空論」というところでしょうか。

一方、陽明学は、王陽明が始祖となる、これまた儒教の一派。「知行合一」という言葉に集約されるように、知識は行動を伴って初めて意味がある…という考え方です。形式主義の朱子学とは違い、実践を重んじた一派だったわけです。
もっとも、この思想は過激な革命思想につながりかねず、幕府は危険視。弾圧された陽明学者は数知れません。

渋沢の考え方は「義利合一」。「義」すなわち道徳と「利」すなわち利益(事業活動)は両立するという考え方です。知識と実践の両立を重んじた陽明学の応用であり、事業活動(実践)を重んじています。
信仰と商業活動の両立を認めたキリスト教世界におけるカルバン派のプロテスタントの考え方と似た発想です。

渋沢は、幕府も恐れた過激な陽明学をそのまま受け入れたのではなく、「私利私欲に走ってはならない。事業の目的はあくまでも国家への貢献である。そのほうが楽しいし、そのほうが熱中できるだろう」といったことを、本書中で何度も述べています。

渋沢の友人に三島中州という人物がいます。二松学舎大学の祖です。
渋沢と三島は前述した義利合一論において意気投合します。それゆえ、二松学舎大学も、渋沢が絡んだ500の組織の一つに数えられています。
三島中洲の師匠は、備中宇和島藩の過労だった山田方谷。高名な陽明学者でありながら、若い者には朱子学を推していました。陽明学は都合よく解釈すると、「自分のために儲けてもかまわない」という理論につながりやすく、ためにならないという理由によるものでした。
陽明学者でありながら、陽明学を諸刃の剣と捉え、危険視していたようです。
山田の弟子である三島を通じて、渋沢も陽明学の逆機能(デメリット)を深く知っていたのかもしれませんね。

渋沢の理論は、純粋な陽明学というよりは、修正陽明学とでも呼ぶべき独自の思想だったのです。

ところで。
この山田方谷の門人として最も有名なのが、河井継之助。戊辰戦争の中で、越後長岡藩をスイスのように武装中立化を目指し、挫折を強いられる家老です。司馬遼太郎の『峠』の主人公ですね。