スタンフォード大学の『白熱講義』が終わったと思ったら、今度は東京工業大学の『白熱講義』の放送が始まりました。
国内の大学の講義もおもしろい! スタイルは違いますが、負けていませんね。
宇佐美誠教授の講義、受けてみたくなりました。
http://www.soc.titech.ac.jp/~usami/
先日放送された第2回。
テーマは「持続的可能な発達」でした。
将来世代の人々は私たち現世代の人々に対し、配慮を求める権利(配慮請求権)を持っている…という考え方。
大変興味深い講義でした。
講義は、教授から学生たちへの、たった1つの質問からスタートします。
「ここに1つのスイッチがある。このスイッチを押すと、30年間日本にはいいことしかおきなくなる。しかし、300年後には壊滅的な出来事が起こることもわかっている。あなたは、このスイッチを押すか、押さぬか?」
30年間のいいこと=現世代の幸福
300年後の壊滅的な出来事=将来世代の不幸
天秤にかけ、どちらを選ぶか…という選択の意思決定について、意見が分かれました。
視聴後。
いろいろ考えさせられました。
きっと再放送があると思うので、興味のある方はご覧ください。
さてさて。
久しぶりに未来予想。
いつもは近未来でしたので、今回はちょっと遠い未来を予想。
100年後の大学のマーケティング研究室での教員・学生のディスカッションの風景です。
———
「これ見てくださいよ」
「なんだい?」
「古い文献なんですけどね…マーケティングの定義が出ています…ええと、『マーケティングとは、個人目標および組織目標を達成するための、アイディア・財・サービスのコンセプト、価格設定、販売促進、流通の計画と実行のプロセスである』…だそうです」
「ああ、20世紀末の定義だね。21世紀初頭にも何度かその派生の定義が出てきたんだけど、ま、どれも似たようなものだったな」
「この当時の人たちって、マーケティングは自分たちの時代でのみ完結する概念として捉えているんですね。時間軸とか、次世代に対する配慮とか、そういう概念はまったくでてきませんね」
「そうだね。そういう意味では、マーケティングにおける『静的アプローチ』しか存在しなかった時代だね」
「時間軸的発想が全くなかったわけではないのですよ。ドメインという事業領域の考え方では、3年後くらいは考えていたようです。中期経営計画と、当時の人達は呼んでいたみたいですよ」
「そうそう。10年くらい先のことを長期経営計画と呼んでいたんですよね」
「いずれにしても、スパンが短いね。短期的な思考だなあ。自分たちの世代だけがよければ、それでよい…という考え方ですね」
「まあ、今から考えると、信じられないだろうけどね。当時はそうだったわけですよ」
「2011年の大地震を契機に、原発問題についての議論が活発化したでしょう。もともと、20世紀末から叫ばれてきた『エコ』という考え方と結びついて、少しずつ、マーケティングの『静的アプローチ』に疑問を感じる声が高まってきたんですよ」
「そうそう。物理学の世界では、20世紀中盤に、相対性理論が発見されて、時間と空間は区別してはならない…私たちの宇宙は、縦・横・高さという3次元に時間を加えた4次元時空間で考えるべきだ…ということがわかっていたのに、経済やマーケティングの世界では、その考え方は無視されてきたんだよね」
「だとすると、地震と原発が与えたショックは大きかったんですね」
「自分たちの世代だけに富を配分しようという考え方から、時間軸を考慮し、将来世代との富の分配すべきだという、マーケティングの『動的アプローチ』が漸く登場したのは、2020年以降だったと思うよ」
「将来世代が常に『欠席裁判』を強いられ、『物言わぬ権利者』だったことに、当時の人達がやっと気づいたわけですね」
「21世紀初頭にも、現世代の『弱者の論理』にこだわった政治家や経済学者はいたんだろうけど、将来世代、つまり、『者言わぬ権利者』の権利と比較したり、対等に扱ったりする人は当時は少なかったということですよね」
「その積み重ねが、現在のマーケティングの定義、つまり、『動的アプローチ』としての定義に生かされているわけです」「
「当時の人達が見たらびっくりするでしょうね。今の定義…『マーケティングとは、現世代と将来世代における顧客・利害関係者・社会のために、価値を創造し、公平に分配するための、計画・実行・統制のプロセスである』…ですからねえ」
「こうやって、21世紀初頭のマーケティングを振り返ると、昔の人たちは本当に、近視眼的ですよね。今度、この時代のマーケティングを『マーケティング・マイオピア(マーケティング近視眼)』と呼んで、論文を書こうかな。」
「それはだめだよ。20世紀後半に、そのタイトルの論文があったと思うよ。ええと、確か、書いた人は…」
「セオドア・レビット!」
「ありゃあ。150年以上前の人じゃないですか。将来世代である我々に命名を楽しむ権利を残しておいてほしかった。タイムマシンでレビットのいた時代に赴いて、『配慮請求権に対する配慮が足りない!』と文句をいってやりたくなりますね」